・・・  虚言癖 1  ・・・ 


 昼休みも終わりの時間、丸木戸教授は鰻重二人前を胃袋に抱えて廊下を歩いていた。少食の内臓には恐ろしくきつい量で、胃が必死に消化活動をしているのが外側からでもよくわかる。
 十二時の鐘が聞こえた瞬間足はうなぎ屋に向かっており、そして席につくなり口から『松二人前』という言葉が零れ落ちていた。一人で二人前注文する客を不自然に思いながらも、相手を待っているのだろうと決めて店員は十分も待たせず料理を運んできた。
 だが、店員の予想に反して、その客は持ってくるなりばくばくと食べ始めて二人前を平らげたのである。細身には信じられないくらいの速度で食べきると、入ってきたのと同様のつまらない顔をして席を立つ。会計の時不審げな視線を感じたが、丸木戸はそれをすべて黙殺して職場に戻ってきた。

 身も蓋もなく言ってしまえば自棄食いだ。

 外の柔らかな光が差し込む開放的な廊下は、春の暖かさが漂っている。その穏やかな世界とは真反対の空気を背負いながら丸木戸は自分の感情を整理するのに精一杯だった。
 零武隊隊長 日明 蘭が彼を見つけたとき、教授は外をぼんやりと眺めているように見えた。だが、それは単に外のまぶしい世界を睨み付けていたに過ぎなかったのである。
「眠そうだな、教授」
そうとは知らない上官は、無防備にも、廊下の反対方向に立っている彼の元へ足を速めながら苦笑しながら近寄ってきた。

「……そう見えますか?」

 近づいてみると彼の目は眠気を湛えていなかった。
 残り数歩というところまできて彼女の足がおもむろに止まる。良くない空気を察したからだったが、気づくのがあまりにも遅すぎた。既に声をかけてしまっていた。こうなってからでは、蘭が止まっても教授の方から距離を縮めてくるのは当然の成り行きだ。
 ぎらりと光る武人の目の色に、わけもわからず身が萎縮する。
 自身を安心させるために、左手を隠しながら鞘を掴んだ。
 それは臨戦態勢に近いものだったが、彼の武人としての器は―――蘭の知る限りでは―――そのくらいの敬意を払っても払いすぎるというものではない。刀を握ったら勝負の結果は彼の圧勝であることは間違いないくらいに、力量の差がある。

 機嫌が悪いのか……?

 普段から迷惑ばかりかけているという点についてはある程度自覚していたので、右から左に仕事のことを思い出してはみるがここ最近堪忍袋をぶった切るようなものを押し付けた覚えはない。時折部下の騒がしい系が教授に迷惑をかけているらしいが、それはいつものことだ。
 一昨日の刺客をぐちゃぐちゃにしていまいち身元わからなくなったけど、そ、それはその量が多かったからしかたなかったわけで……教授だってわかってくれるし……。はっ! も、もしかして有給がほしいとかそういうことか!? 有給か……。うううううう、そういえばこの前却下してから随分経っていたな……。き、教授に有給を出すとなると後方支援には後任が必要となるからいきなりは難しいが、なんとかその……。
 相手がいらぬ混乱していることはわかっていが、それを無視して丸木戸は口を開く。
「残業がないですからね。最近。
 非常に嬉しいことに昼から眠くなることはありませんよ。
 久々に規則正しい人間じみた生活を送っているのはいいものですね」
彼女の武人としての勘は戦略的撤退をしろと激しく告げていた。剣の間合いに入っているだけで冷汗が噴出すのだから確かにこれはよくない状況だ。だが、蘭は、上司という体面を重んじて、その後退したい気持ちをぐっと抑える。
 部下が不機嫌だったからといって、廊下で会話した程度で上官が逃げ出すことが許されることだろうか。
 ―――否。帝国軍人としてそんな無様な真似をするわけにはいかない。
 心を興すと、気を飲まれないよう腹に力を込めて彼の眼を見返す。
 強い日差しが眼鏡硝子に不気味に反射した。
「そうか。
 軍人は体が資本だからいいことだ。しかし今の発言は医者の不養生だな」
「そうですね。
 気をつけます」
明るい分だけ濃くなる陰影に、どきどきと蘭の心拍数が急上昇する。
 教授は言うだけ言って、口を真一文字に閉じた。
 だが、彼女の行き道を塞ぐ様につっ立ったまま退こうとはしない。
 不機嫌なのは間違いない。
 その原因も、どうやら自分にあるらしい。
「……何か連絡事項でもあるのか、きょうじ」
「今日のお昼はどちらへ?
 お戻りがずいぶん遅かったようですから何処かで済ませてきたのでしょう?」
蘭が口を開きかけた途端、教授が口を挟んできた。



 詰問するような口調のその質問に、一瞬彼女の表情が強張ったのを本人だけが知らない。
 実は、今日の昼食は八俣に仕事ついでに誘われて二人きりで食事をした。『警視庁の傍にすごい美味い西洋料理店ができたけど、来ない?』と言われたので、二つ返事でついていった。
 警視庁との仕事が普段とは違って三十分も早く片付いたのも彼女が快く承諾した理由の一つだった。昼にゆっくり旨い食事をするのもいい時間の使い方だ。
 たんに食事をしただけだ。
 が、それが丸木戸にばれることはなんとなく拙いかもしれない……と蘭はなんとなく思った。
「あ……ああ。午前の仕事が延びたから帰りがけに寄ってきた」
「でしたらメニューを提出していただかないと。
 部下と一緒ではなかったでしょう? 現朗と激に聞いても二人とも先に帰ったから知らないと言うので困りました。
 官舎で食べたなら隊員に聞けばわかりますけれど、外で食べたときは必ず何を食したかお話下さいといってるではありませんか。
 いちおう、私の仕事には大佐の健康管理も含まれているものでね」
 ……なんだ、不満の原因はそんなことか。
 ほっと胸を撫で下ろすその様子を見ながら、目の前の男が顔の裏でほくそ笑んだのに彼女は気づかない。
「魚の定食だ。変わった外国の味付けだったがそこそこに美味かった。
 メニューは後で持っていかせる」
「おや珍しいですね。
 日本食以外を食べたんですか? てっきり蕎麦か何かと思ってましたが」
「たまには蕎麦以外も食う」
「参考までに、どんな店か教えてくださいよ」
「黒猫料理店、という面白い名前を惹かれて入ってみた。案外に美味かった」
おやおや。
 と、変な相槌が入る。
 どういう反応なのか一瞬意味がわからず、蘭は不思議そうな顔をした。
「なんとまあ、黒猫料理店ですか」
「……まさか、君も知っているのか?」
丸木戸は眼鏡をかけなおして、満面の笑みを浮かべながら視線を戻す。笑みはともかく目は完全に笑っていない。

「ええ、勿論知ってますよ。
 とても有名です。とてもとてもとても、ね。
 今一番人気な店ですよー。
 そりゃもう、すごい人気で。昼も夜も向こう二ヶ月まで予約が一杯で。
 ……いきなり行っても食べれるはずはないんですけれど、ご存知でしたか?」

びきっ。

 わかりやすいくらいわかりやすく、蘭が硬直する。
「どなたかと一緒だったんですよね?
 二人きりですか。それはさぞや楽しい食事でしたでしょう」
「ち、違っ。
 前からその予約を入れたのだ、私がっ」
「あははははははは。
 ……なるほど。お一人で予約をいれてお一人で食事をしたというその言葉を信じなければならないわけですか。私は」
きっつい嫌味に、蘭は流石に二の句が継げない。
 沈黙が怖くて、肩を落とし、床に視線を這わした。