・・・  阿房に付ける薬なし2  ・・・ 

 毒丸は薬瓶に蓋をし、半分残った湯飲みを持ったまま佇んでいた。
 ちらちらと不審な視線を彼女に向けているので、蘭は首を傾げる。
 それから席を立ち、そして、青年の前に立った。
 悔しいが、身長では青年の方が少しだけ大きい。
「たい……さ……?」
声が掠れていた。
 期待に濡れた瞳を見ながら、蘭は思った。

 愚か者が―――

 いきなり、手を伸ばしてその後頭部を右手で掴む。
 毒丸が理解するよりも早く、その掴んでいる手に思い切り力を込めて前に引き寄せた。近づく顔の唇と、自分の唇を合わせる。
 吃驚しているのがよくわかる。瞳は完全に固まっている。
 その間に舌を入れて、口に隠していた水ごとそれを無理矢理飲み込ませた。
「ぐっ。げはっ」
蘭を突き放して身を逃がし、毒丸は床に四つん這いになって吐こうと必死になる。だがそれは小さく、水に乗って完全に胃の中へ入ってしまった。
 彼女は一連の動作と同時に、彼の手の中ら薬瓶を奪っていた。それをしげしげと眺めながら薄く笑う。
「これを全部飲ませてやろうか?
 ……ったく。ろくなことをせんなお前は」
「し、知ってたんすかっ!?」
吐くことを諦めた毒丸が、顔を上げる。
「この私がカプセルが同じだったら信じるとでも?
 それと、はめ込むときに字がずれているぞ。……まあお前のような奴のためにこの文字を入れたそうだ」
「そ、そんなぁ」
「くくく。教授も今回ばかりは無駄ではなかったわけだ。
 よくもまあ全部取り替えたな。執念だけは認めてやらんでもない」
このカプセルは胃でもなお吸収させる不思議な効能があるのか、毒丸は膝をついた。
 彼女相手だからといって量を多くしたのが拙かった。
 ぶるぶると身を震わせて、息が荒くなる。急に熱くなる体温と下半身の異変に、蘭が気づかないわけがない。全身がぞくぞくと快感を感じていた。
 視界が回るような妙な浮遊感があった。
 床に手をつきながら蹲る青年の前に、蘭は立ち塞がる。刀の鞘尻でその背中をつついてみた。
「はぁっ……んっ……」
男のわりには、妙に色気のある声があがる。
 蹴って気絶させても良いのだがそれでは少し面白味に欠けるだろう。
 色々と思いつくと、彼女はいそいそと部屋から出て行った。



 「全員召集っ! 集まれぇ―――っ」
六月十二日午後十時三十二分十五秒。
 それは、悪夢の始まりの時間として永遠に脳裏に刻まれることになる。
 官舎の仮眠室付近の部屋を使って当面の寝る場所としていた隊員たちの下に、朗々たる女の声が響いた。全員、聞こえるとすぐに立ち上がる。怖いその顔を思い出しながら慌てて軍帽と武器をとり、我先に部屋から出て行った。
 現在この官舎には三十余名ほど居たのだが、その全員が集まるのに一分も要さなかった。
「よしっ。点呼っ」
ずらりと並んだ軍人たちを前に、蘭が声を張り上げる。その手に、簀巻きにされ身悶える毒丸が居るのを見つけて、彼らの顔が引き攣った。
 ……なんか、嫌な予感がする。
 流石蘭の目に適う猛者どもの集まりだけあって、その予感は非常に正しかった。
「点呼終わりました。
 ど、毒丸隊員以外は全て整列しております」
「わかった。
 これより耐久訓練を行う。場所は零武隊官舎内、武器の使用は拳銃以外の手持ちの武器のみ認める。訓練続行不能になった者は自力で医務室に戻れば一時的休憩を認めよう。
 開始時と終了時には館内放送で合図をする」
『はっ』
嫌な予感を必死に抑えながら敬礼する。
 一体この時間から何の訓練を……
 と、問いたくて仕方がない。
 ぶんっ。
 蘭は毒丸を彼らの目の前に投げ捨てた。
「……缶蹴りだ。
 私が鬼で、捕まった奴はこうする。変な薬を食わせたからなんか辛いそうだ」
嫌な含み笑いをしている。毒丸は明らかに興奮している顔をしながら、必死で身をよじっている。男性としてはあの表情が何を意味するのかよくわかった。

 それを簀巻きにするなんて……

 生唾を飲めば、目の前には鬼がけたけた笑いながら立っている。どこから取り出したのか、彼女の足には西洋スープの缶が置かれていた。
「ルールはわかったな。
 それでは数えるぞ。
 一分の猶予をくれてやる。さあ、逃げろっ!」
蘭は刀を振り上げて意気揚揚と宣告した。
 その号令とともに、全員一斉に背を向ける。やばい、あの表情はやばい。完全に遊んでいる彼女に、今この世界に頼りになる先輩が一切いないことをが死ぬほど悔やまれた。
 数字をカウントしながら、彼女は足元の毒丸を蹴って遊んでいる。
 いつになくハイテンションの蘭を尻目にそっと涙を拭った。



 朝十時。
「今から、朝食を兼ねた隠れんぼだっ!」
「た、大佐……先ほどから元帥府よりお電話がきておりますがっ」
「む?」
つかつかとけたたましくベルを鳴らすそれの前に立って、刀をまるで当然至極のように振り下ろす。
 もう戻りようもない電話機を前に、誰もが目を丸くした。
「よし。では隠れんぼだっ!」



 二週間半後。
「……おい」
「…………なんだこれは」
炎と現朗は唖然としながら我が家……すなわち零武隊官舎を見上げた。半壊している。大工が良かったので壁の半分以上に穴が空いていてもまだ原型を保っていたが、もはや素人の修理ではどうにもならない状態だ。
 二人の後ろには遠征に行った隊員たちが、同じような顔で見上げていた。
 呆然とした表情で。
 口をあんぐりと開けている彼らの前で、がずぅん、とまた爆炎が上がる。
「待て―――っ!」
と、確か部隊で一番足の速い男が槍を振り回しながら追いかけている前に。
「わーい」
「待たないぞー」
わらわらと他の隊員たちが追われている。
 その可愛らしい一団の中に長髪の女性も含まれていた。テンションがぶち切れたところまできたので全員爽やかな笑顔を浮かべているが、彼らの顔は今まで遠征に行っていた者のそれよりもげっそりと憔悴していた。目はくぼみ、頬はこけ、顔は青白い。それでもなお爽やかな笑顔だ。
 遠征部隊に気づかずまた壁を破壊しながら奥へと消えていった。
 現朗と炎は顔を見合わせて、こくりと頷く。これは間違いない。一週間以上遊んでいたのだ。二人は自分の部隊の方へ向き直った。
「今から新たな任務を開始する。
 内勤だった者を全員捕獲し、医務室で精神安定剤と栄養剤を投与しろ。
 日明大佐はとりあえず放置だ。他の者が捕まってから大々的に全員であたる作戦をたてる。今からあげる五人は医務室で準備し、他の者は捕獲にあたれ。
 殺気立っているから甘くはみるな。
 武器は必ず用意しておけ」
『はっ』