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「……謝りに、行ける?」 「日明がっ。 本気で怒っているのにっ。 行けるわけないだろっ」 逃がせ、匿え、と無理難題を押し付けてくる彼女に、ため息をつきながら首をふってやんわりと拒否する。 気持ちはわかるのだが、それは根本的な解決にならない上に事態を悪化させるだけだ。それにそもそもの問題として、警察権力を使ったとしても日明から彼女を匿うのは物理的に不可能なのだ。生れつき人外の能力を備えている男だし、妻に関する件ではいっそ神々しいと感動を覚える行動をとる。八俣とて命は惜しい。 「でも謝らないともっとまずく曲解するんじゃない? 誤解も思い込みも凄い奴だし」 「それはそうだが。わかっているがっ!」 「……そもそも、あんただって悪気があったわけじゃないんでしょ。たんにまあ、日明の出張中っていう嫌なタイミングに、ちょっと不意をつかれた、ってこと。 だから素直に謝れられれば酷くはならないと思うけど」 ぶるぶると首を横に振って否定する。あの一直線で向かう様子は、そんな甘いものではなかった。謝ったら許してくれるような様子にはとても見えなかった。 「匿えっ」 「無理だっての。気分としては今すぐ日明に通報したいくらいよ。 あたしまでとばっちり受けるじゃない」 その軽い口調の一言に、蘭は壮絶な殺気を籠めて睨みつける。冗談じゃなく、彼女は刀を抜く一歩手前だ。 ……冗談を流す余裕もない、ってか。 その気持ちは、彼とてわからないでもない。 腕を組み、虚空を見上げた。彼女は押し黙って男を測っている。おそらく少しでも裏切る素振りが見えたら気絶させようと考えているのだろう。八俣は別に裏切るつもりはなかったので気にせず、思考の渦に身をゆだねた。 喧嘩を上手く仲直りさせる手段なんて、そんなにあるものではない。 「じゃあ。まず手紙で謝って、それから家でしっかり謝るなんてどう?」 「……手紙?」 彼が柔らかな提案をすると、存外素直に蘭はすぐに食いついた。 珍しいもんだ、顔に出さず驚嘆する。普段からこう素直やさしくしないわけでもないだが、と、思ったがそれは一生ありえないだろうとも同時に思う。高慢を彼女からとったら何が残るというのだろう。 医務室に一陣の風が吹き抜けて、暑さが和らぐ。心地のよい空気だ。 「そーよ。 手紙なら、一応距離置いて謝れるでしょ。そしたら日明の気持ちも落ち着くし。それからもう一度謝れば済むんじゃない。手紙は渡してあげるから、家でお酒や食事なんか用意して待っていれば?」 先の見えない暗闇から漸く光明を見出して、彼女の顔が安堵で緩んだ。安心させるように微笑んでやった。 ようやく落ち着いたらしい。手段が決まれば行動が早いのが特長だ。 すっくと立ち上がって男を見下ろした。 「部屋を借りるぞ。警視総監殿」 「暑いから。めちゃくちゃ」 「心得た」 言うが早いか一陣の風のように去っていった。 髪がたなびく姿は、まるでここまで残り香が漂ってくるような幻想を覚えさせる。彼女を評価するのに、美しいという言葉以上に何が必要だろうか。 「……可哀想に。 ま、ガキはすごいわねぇ」 彼女に想いを寄せていた青年。なんとまあ、入ってはならない領域に堂々と踏み込んだことか。闇討ちされるだろうが、それは禁を破ったものに与えられる罰、いわば、禁を破ったという証だ。おそらく彼はそれを誇りとしていくだろう。 「にしても。どーやって日明に手紙を渡そうか。 俺のところに来ていたと知るだけで、アイツ絶対いらぬ誤解を始めるだろうしなぁ」 しばらく考え込んで、それから立ち上がって部屋に設置してある受話器を上げた。電話先は零武隊だ。 電話に出たのは、顔が好みの現朗だった。 「私よぉん。ダーリン」 「……只今、大佐は外出中です」 からかってやると、予想通りの固い声が戻ってくる。 「ちょっと日明殿に伝言頼めるかしら? 大佐、じゃないほうよ」 その一言で、切れ者と名高い青年は全てを察したらしい。 「そうか、そちらに大佐が……。 負傷者六十余名、と伝えてくださいませんか。それと伝言は渡せません。現在、日明中将の周りに行くのは危険すぎて我々には出来ません」 軍も暇だなぁ、と思い苦笑が浮かぶ。 怒り狂っている日明を、幾度か見たことがある。負傷者ですんでいるということは、武器は手にしていないのだろう。 了解した、といって八俣は受話器を置いた。手紙を自分が手渡すのは危険すぎる、という一点だけはよくわかった。となると、残る手段は一つしかない。 医務室の奥にある棚へ行き、厳重に閉められた戸の鍵に針金を突き刺して鍵をあける。茶色の薬瓶を取り出して、その液体を自分のハンカチにしみこませた。 クロロフォルム。もっともポピュラーな薬剤だ。 そのハンカチを持って、部屋に戻る。 蘭は一応手紙がかけたようで、すがすがしい表情をして近寄ってきた。 ―――が。 男の体から薬剤のにおいを嗅ぎ取って、すぐに刀を抜いた。 「どういうつもりだっ」 「現朗ちゃんがね、六十名も負傷者が出てて困ってる、っていうのよ。となると手紙をいきなり渡すのは危険でしょ。 人身御供。 おわかり?」 「嫌だ。わからん。絶対にわからん」 首を横に振る。眦に、きらりと光るものが見える。汗ではない。 「いいから大人しくしなさい。 悪いようにはならないんだから。ちょっと手順が変わるだけで、きちんと最後のほうは同じよ。日明も許してくれるって」 「ふ、負傷者が出ているのは、稽古不足の奴らの責任だっ! それに日明だって怒りすぎなのだっ。たかだか接吻くらいっ。……だいたい、そういうことをいきなりかましてくる奴も奴だ! ……私は、私は何も悪くないっ」 トラブルの原因の分際でごねる彼女のこの台詞は、さすがに八俣の最後の一線をぶっち切った。 「……なんだと?」 低い声でぼそりと聞き返す。蘭はぷるぷると顔を振った。 「悪くない悪くない悪くないっ。私は悪くないんだっ! 誰がおめおめと日明に引き渡されてたまるかっ。あいつらが悪い」 「……夫がいるのに唇とられたのも、おめぇに好いた惚れた奴がでたのも、お前が逃げたせいで健気にとばっちりを食っている部下が出たのも、おまえには全く責任ないことだ、ってか?」 「ないっ」 刀は八俣の眉間を狙い、動かない。 彼女が気づかぬ間に全てを片付けてあげよう、と、思っていた。だがこういう態度ならば仕方がない。少しくらい脅してやっても、文句は言わせない。 「ほう、そうかい。今、お前がここにいるって軍部に連絡したんだよ。日明の足ならば十分でここに着くだろうな。 正気のまま引き渡されるのと、意識を失って引き渡されるのが…… どちらがましかこの場で選べ」 彼女の顔色が、絶望に変わった。 一歩、八俣が歩み出る。 わずかに躊躇はあったものの、蘭は刀を下ろして鞘に戻した。……そんな二択ならば、選ぶまでも無い。 彼は俯く軍人の目の前に立って、それから薬の染みたハンカチを差し出した。 緩慢な動きで手が伸ばされる。白い手袋に包まれていた指が微かに震えていた。正気のまま捕まりたくは無い、だが、気を失って好きなままにされるのは怖い―――蘭の揺れ動く気持ちが眼に見えるようだった。 ―――刹那。 彼女が顔をあげる。 その瞳が、好戦的に光っている。 受け取ると見せかけて、至近距離にある八俣の腹を拳で狙った。この距離ならば彼が身をかわす余裕は無い。拳がうなりを上げた。 だが。 次の瞬間、床に落ちたのは彼女のほうだった。ボディブローが決まる前に、八俣は下あごから思いっきり蹴り上げていたのだ。 「……ばれてるよ」 床に大の字に倒れ完全に気を失っている。日明の本気は彼もわかっている以上同情しないわけでもないが、諦めが悪い奴、と心の裏で思った。 薬剤をすわせてから担ぎ上げる。 墨を乾かしている最中の手紙を持ち上げて懐に入れた。 ***** 外は蝉の大合唱。暑い日差しをきらりと浴びて、なんとなくすがすがしい気分だ。たとえるならば、そう、この世の悪を一つ破壊したような。ついでに世界を一つ救ったような。 「現朗ちゃんに何かねだっちゃおー」 オカマ警官のおかげで軍の平和は戻され、そして現朗はお礼として一週間警察でタダ働きすることになった。 |
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