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蝉時雨、という言葉をただに只管かみ締めながら、帝都の治安を司る警視総監は判子を押し続けていた。暑いなんてものではない、熱い。意識を何かに集中させていないと、暴走してしまいそうになる狂った暑さだ。 蝉たちはこの気温をものともせず、嬉しそうにじぃじぃ鳴いている。油蝉のその声は、ただ聞いているだけでも腹立たしくさせる成分が含まれているような気さえする。 「くそぉ」 頬から伝った汗が、書類にしみを作った。 八俣がここで制服を脱がないのは、意地だった。 誰に対する意地でもないが、この意地を捨てると壮絶な敗北感を味わうことだけはわかっている(得てして意地とはそういうものである)。 「警視総監。……今日は、やめませんか」 げんなりとした表情の部下が上官を慮って声をかけるが、次の瞬間睨まれた壮絶な瞳に言葉を失って逃げるように部屋を出て行った。 やめてーよ。俺だって。 と、頭に血が上ったまま言葉を出してしまいそうだ。 「このくそ暑い時期に、なんだって壊れるわけぇ。 日本の警察なめんじゃないわよぉっ」 実は。 昨日の夕方から、警視庁の電力供給施設が壊れてしまい、扇風機が一切止まってしまったのである。この建造物は扇風機に頼り切った構造のため、窓が開かない。窓ガラスがやたら大きいこの部屋は、電気がつかないのでカーテン全快にしていたら一瞬で地獄と変わり果てたのである。 この部屋で、とにかく今日の分の書類を片付けなければならない。にじむ汗に書類が汚れるのに気をつかいながら、八俣はがしがしと書類にサインを書いた。 何も起こらなければ午後三時には終わる。脱水症状が起こる前には逃げることが出来る。 だが、運命はそうは甘くなかった。 ばきっ。 扉が壊れんばかりの勢いで開かれる。唐突な闖入者に、いきなり怒りが沸点に上った八俣は人でも殺しそうな睨みつけながら叫んだ。 「面倒な事件おしつけんじゃないわよっ、蘭っ!」 白い軍服を見れば、闖入者が誰なのか遠目でも一目瞭然だ。 だが珍しく、相手は軍帽をつけていなかった。長い自慢の髪をたらして、かつかつと一直線のところに自分の下によってくる。日明蘭。 「……てくれ」 近くまで来ると、その瞳が震えているのがわかる。この暑さの中、顔は血の気なく真っ青だ。 かつて無い表情に、書類から顔を上げた男の顔に疑問符が浮かぶ。 「は?」 「助けてくれっ。頼むっ」 思いもかけぬ言葉に、八俣は世界が白く光ったように見えた――― ***** 「ほら。熱中病になったじゃないですか。気絶したじゃないですか」 医務室の寝台の上で、警視総監は目を覚ました。気絶した、と大事にいっても、ものの数分だ。だいたい気絶の原因はあの暑さのせいではない。 「総監。無茶は駄目ですよ」 部下は嫌味を言うだけ言って、出て行ってしまう。 横を見れば、零武隊隊長が強張った表情で座って何かいいたげに見つめていた。部下などにはいつもの怖い軍人のようにしか見えないだろうが、付き合いの長い八俣にはわかった。 唯我独尊を地で行く彼女が、本気で怯えていることに。 「さーて。 まぁーた、もみ消し?」 「……消せたら、消したい」 「歴史の始末屋を豪語するあんたらしくないわね。 で、何があったの?」 待っていた質問に、救いを求める蘭は目を耀かせながら口を開いた。 「日明が暴走しているんだっ」 くらり、と男に眩暈が襲ってそのまま布団に倒れこむ。 だが蘭は彼の二度目の気絶を許さない。絶対に、ここでこの男を味方にしておかなければならないのだ。 「貴様っ。寝たふりをするなっ。てゆーか寝るくらいならなんか助けろっ」 ぼかぼかと手加減と容赦一切無く殴りつけられると、さすがに無視できず八俣は寝台から半身を起こした。痛い、と言って半眼でにらみつけると、ようやく手が止まった。 「原因はなんなのよ?」 「……う、浮気、みたいな、こと……が、あった……らしい」 歯切れ悪く彼女が言うと、三度目の眩暈が襲ってくる。 この馬鹿。 といってやりたい。 日明。彼女の夫で、一応本人曰く八俣の親友に当たるそうだが、八俣としては、敵に回したら死を覚える唯一の男だ。彼には心酔しているが、信用はしていない。ていうか親友でも友でもなんでもない。 この男が妻を溺愛しているのは有名な話しだし、八俣もよく知っている。溺愛なんて可愛い程度でないのも、よくわかっている。二人が結婚してから四年、一人息子の天馬が生まれ一応落ち着いていると聞いていたのだが。 「安らかに死んでね。天馬ちゃんには立派な継母を見つけてあげるから」 「簡単に殺すなぁぁぁぁっ。 というか、この状況では本当に洒落にならん」 「だって。浮気したんでしょ。あんたが。 切腹ですめばいいけど。きっと八つ裂きね」 「違っ。浮気じゃない。 たんに食事をしただけだっ」 冷たい視線を投げつける彼に、蘭は必死で言い訳を紡ぐ。 「誰としたのよー」 「……名前は、一応、伏せるが……」 そもそもその出会いは、数年以上も前に遡るのだという。 彼女は偶然勤務中、物取りに襲われている馬車を救った。馬車を引いていたのはまだ青年くらいの年頃の若者で、ある大店の息子だったらしい。彼は幾度も謝辞を述べ、何かお礼がしたいといってきた。勿論その時は勤務中だし、職務の一環で助けた以上礼は受け取れないと断った。相手も社交辞令だろう、と考えていた。 すると、彼は翌朝家に来て、礼とともに剣術指導を願い出たのである。忙しい身だからといって指導は断ったが、剣術の指南役を教えてあげた。性格も素直で、随分気持ちのいい青年だった。その後指南役に尋ねてみると、かなり腕を上げて、よい弟子になっているとのことだった。道場を訪ねるたびに彼ともあい、年賀状を送るくらいの仲ではあった。 「それで。その子と食事したの?」 「う……うむ。夕飯をな。稽古が終わった後に」 「食事だけであいつが怒るわけねえだろが。 激怒した理由、心当たりあるんだろ。 さっさと言え」 八俣の本気に触れて、彼女は顔を伏せた。逡巡している暇はない。今は、一分一秒でも惜しいのだ。 「食事をしたとき、日明は出張だったのだ。 その、帰り道。その子が、想いを寄せているといってな。それは勿論断ったんだが、結婚しているし。 そうしたら…………抱きついて……せ、接吻をした」 男の目が据わる。 蘭も、いいにくそうだ。口元に手を当てて、指先が幾度も唇をなぞる。 「わざとだろ。お前が避けられないはずがねえ」 「……情に流されただけだ」 それがどうやって日明にばれたのかはわからない。彼の情報網―――つまり、地獄耳―――には人知を超えたものがあるので、今更考える必要はない。とにかく、彼は、妻が知らぬ男と食事をし、かつ相手の男は告白した上キスまでした、ということを知ったのだろう。 八俣にはよくわからないのだが、日明は妻が他の人々の目に触れ、社交的なのは大変好きらしい。自分の妻を見てもらっているのは喜ばしいのだという。だから、食事にいったりするのは気にはしていないだろう。 だが、問題は接吻だ。蘭が他の男に触れられるのを、日明は死ぬほど嫌っている。それは男としてわからないわけではないが、そのために白手から軍帽まで全身を覆うような格好をさせて、一切彼女を外界から隠してしまおうとする心情までわからない。 しかも蘭に素手で触れた男には闇討ちにしている、と彼が笑いながら語ったことがあった。警察権力をもってしてもわからない闇討ち事件が蘭を中心にいくつか存在しているので、笑いながらも酒の席の冗談だとは思わなかった。否、絶対奴の仕業と八俣は確信している。 「先ほど出張から戻ってきたのだが。 一直線に私の部屋まで来た。だから、来る途中から、逃げてきたのだ」 「はぁ?」 意味がわからず問い返すと、 「壁も部屋も全部ぶち壊して、文字通り一直線で来た」 沈痛な面持ちをした蘭の口から、返事が返ってくる。 その無言の重い空気で、『親友』が怒り狂っている様子が八俣には手に取るようにわかった。 |
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