20/1/2007 「朝から元気が宜しいですね。 おはようございます、八雲様」 妖怪の世界に金持ちという基準があるのならば間違いなく大金持ちベストスリーに入るヤマタノオロチ 八俣八雲は、庶民的な木綿布団(煎餅状態)を、その存在そのものを愛していた。天蓋付きの美しい寝台もあるし世に百羽といない鳥の羽で作られた掛布団もある、さらに言えば寝室自体も気分に合わせて選べるよう十以上はある。だが、それでも、あえて、この布団で眠るのが好きだった。 自分好みの美少年の部下はこの部屋に行こうとするとそのたびに眉根をしかめるので、この布団じゃないと良く眠れないのだと解説してやると、もう十分わかりましたから、と絶対わかっていない口調で返答されて去って行くのが常だった。それはともかく、そういうわけで木綿のシーツにくるまれた庶民的な煎餅布団で眠っていた八雲は、その朝、自分の布団に別の人物がいるのに気が付いたのである。 朝起きるとき横に人が居れば、人は一つのことに迷う。 夢か、現実か。 八雲は人ではなかったが、同じようなことに迷った。 「うふふふ。やはり思ったとおりです。……朝は破廉恥が基本ですわよね」 言葉共に下半身に触られる感触が与えられる。 ―――下半身? 半開きだった男の眼は一気に見開かれた。相手は僅かに驚いたようだったが、起きたとわかると莞爾としてさらにいっそう激しくそこに撫で回す。 「ちょっ! な、なんでお前がっっ……」 「八雲様の―(放送禁止用語)―がありますところ、必ず妙は控えておりますれば」 「綺麗な顔でしれっと汚いことを朝から言うんじゃねえぇぇっ! 揉むな揉むな揉むな」 「では、早速、挿れさせて頂きます」 「嫌だ。止めろ。腐るわ」 八雲は即答しながら臍を噛んだ。 幾重にも結界を張り巡らせてコレが入ってこないよう色々注意を払っていたのに、なんてことだろう、一番無防備な寝室のしかも布団の中に潜り込んでいるとは。あれだけしてもまだ無理なのかよ……と腹の中で嘆息しつつ、布団から起き上がると肌蹴た浴衣を着なおした。下着は勝手に脱がされてしまったらしい。 ちらりと見下ろすと、八雲の下着を両手で大切そうに持ちながら息を荒くしている娘がいる。 娘、と書いたが、勿論彼女は立派な妖怪だ。首は細くて白く、ぬばたまの黒よりもなお深い漆黒を湛えた御髪は一本一本が蜘蛛の糸のように細い。八雲が掴めば折れてしまいそうな生っ白い腕。その白は人に近くて人のそれではない。肌理細やかさが行き過ぎて粘土のようにも見えるが、いったん触れれば、本繻子のように触る者を魅了する肌触りだ。 これでも、一応、凶星の一人に数えられている大妖怪なのだ。もっともそれは彼女の談によれば不本意な結果なのだそうだが、実力から言えば十分だろう。彼女を打ち倒すことはおそらく他の凶星全員が協力して全力を出したとしても不可能だ。 ただ他の凶星とは違って支配する地域もなく、表舞台には滅多に出ていないし、さらに言えば、彼女に会った者たちはことごとく出会った記憶自体を封印してしまうのでこの容姿を知っている者は数少ない。 俺だって忘れたい。 ―――と、八雲は呻きながら額に手を当てて天井を見上げた。漆で塗られた赤い板。本当は色事にも使える部屋として作ったのだが、この女が来たのでここは使わないように心に決めた。寝ている間にどんな細工が為されたかわかったものではない。 丁度その時部屋と廊下とを区切る襖が静かに開かれた。 「八雲様。 外で山の妖たちがお目通り願いたいと申しておりますが…………。 ……申し訳ございません、失礼致しました」 「大丈夫よ尊。お客様はもうお帰りになるから」 「ええっ! そんな、今ようやくたどり着いた所でしたのに」 鈴を転がすような高音で非難の声があがるが、八雲は耳に指を入れて聞こえないふりをする。振り返ったら負けだ。そのまま襖へ向かって、突然現れた『客人』にどう対応すべきかうろたえる少年姿の妖怪に、いつものように婉然と微笑みかける。 「じゃあ、その山の妖たち全員通して頂戴。 すぐに」 尊の切れ長の目が、瞬間、がっつり見開かれた。 理由は、わかる。 他人が館に訪れてすぐに目通りが叶うことはいままでになかったからだ。わかっているのだが改めて驚かれると腹のどこかが苛つくのを自覚する。 尊は驚きをすぐにしまうと、一礼してから踵を返して廊下の奥へと消えた。 「ごめんなさい、今からお仕事があるから。 籠を用意するわね」 「いえ。いくらでもお待ち致します」 「うーん、でも、今凄く忙しいから。出てけ」 「嗚呼……。 そんな……。そんな、久方ぶりにお会いしましたのに、話す間もなく出てけなんて…… …出てけなんて…………… ……………………。 ……っはぅん。 …………ぁ……も……もっと……もっと…………嗚呼! もっと酷いお言葉で蔑んでおくんなましっ」 しまった、と思った時にはすでに遅し。一人の世界に入り込んでしまった大妖は自分の妄想遊びを始めてしまっている。 コレが始まったならば三日は持つほ本人が豪語しているのだから、『最低でも』三日はもつのだろう。山の妖の話を聞いても一日を潰すのが精精だ。どうやって追い出せばよいのか考えながら八雲は廊下へ出た。妙は自分のことで手一杯で出て行ったことに気づいていない。基本的に、彼女は隙だらけなのだ。ゆえに彼女から逃げるのは難しくはない。―――ただ、もう異常にしつこいだけで。 廊下には不安そうな目をした―――口元は布で隠しているので表情は読めないが―――尊が控えていた。無言で、上目遣い。その頭を大きな手がゆっくりと撫でる。 「……尊、この部屋を封印しておいて。 そして、絶対あの妖怪に粗相のないように。いい、絶対よ。攻撃なんてしては駄目だからわかってちょうだい」 「客人にそのようなことは」 「私に対して無礼なことを言っても、よ。わかったわね」 尊は返事をせずに、廊下に視線を這わせている。強張った顔には少年の思考の変遷が読み取れた。戸惑う気持ちはわかるが八雲は決して手を貸さない。そんなことをしてやるほど弱い妖怪ではない、彼は。 主が傷つけられて、己が黙っていることが出来るか。 ―――それは、問われるまでもなく、否だ。 だが八雲様の命令は絶対。 「……拝承しました」 血を吐くように絞り出された声。 それを聞くと、八雲は満足げに腕を組んで廊下をゆったりと歩いていった。 |