挿絵
 ・・・  暑中お見舞い申し上げます  ・・・ 


 陸軍特秘機関研究所の目と鼻の先。
 そこに、一つの古びた八幡宮がある。
 その鳥居に一枚の張り紙が張られた。
「……おっ? 8月10日祭りやるんじゃねえか」
赤い棒を肩に担ぎ、外回りから戻ってきた彼は直ぐにそれに気づいた。というのも、その鳥居の周りには嬉しそうに歓声をあげる子供たちが集まっていたからだ。子供たちは白服のその軍人が近づいてくると、お兄ちゃーんと声をあげて取り囲む。激と子供たちとは、この社で遊ぶ年齢の壁を超えた仲間なのだ。
「お祭り今年やるんだってさ」
「昨年は色々あってなしになっちゃったからさー」
「お兄ちゃんも来るの?」
期待に満ちた目を向ける少女に、激はにっこりと微笑み返す。
「行く行く。俺、お祭り大好きもん。ここの社でもやるなんて知らなかったぜ。
 で。どんな屋台出るんだ?」
射的、綿飴、輪投げ、と次々に声が上がる。その中でも一番小さい子が足に縋りついてきたので、彼はその腰を持ち上げて肩にのせた。それを見ると、他の子らも乗りかかってくる。
「全員だって乗せられるぜ!」
『わーい』
髪を引っ張られてもなんのその。肩に三人ほど乗せて青年はわざとぐらぐら体を動かすと、落ちそうになった子供たちが可愛い悲鳴を上げる。
 彼らに揉まれて、そのまま鬼ごっこに突入。
 半時間ほどたっぷり遊んでから、この遊び人の白服は研究所へ戻ってきたのである。



 仕事場に戻ると誰もいなかったので、武器庫へ急いだ。激の予想は見事に当たり、部下たちは全員、今日届いたばかりの最新式の異国の銃剣の整備をしていたのである。その最新の武器は隊員たちの憧憬の一品で、届く前から随分噂になっていた。
「隊長、遅いっすね」
生き生きと笑顔で銃身を磨いている部下の一人が、遅れてきた隊長に声をかけてきた。
 普段武器の手入れなどお座なりもいいところなのに、こういう時は人間現金なものだ。
 一人が手入れが終わると、隣の隊員が奪ってそれを再び手入れする。いつまで経っても終わらないのだが、誰もが新しい銃に浮かれていて理性は普段の三分の一も働いていなかった。
 激は一直線に部屋の中央へ進む。
 その目はきらきらと少年のそれと同じくらい純粋な輝きをしている。何だろう、と隊員の注目が集まったところで彼は両手を振りながら声を上げた。
「なーなーなー。明後日誰か暇なやついねえ? 一緒に祭り行こうぜっ」
と、いつものように誘ってみる。―――が、乗りの良さなら日本陸軍一位二位を競う部下たちは珍しく反応を返さないで互いに顔を見合わせていた。
 その日は確か―――

「あの……た、体力測定の日ですか?」

そうだぜ、と軽く隊長は答えるが、その答えを聞いた周囲の顔色は一瞬で暗くなる。
 零武隊の体力測定は、己の限界に挑戦するという名目の下にすべてがセッティングされているため、死を垣間見ることが出来るような世界に突入できる最悪の行事として認識されている。思い出したくもないので数日後の予定なのに記憶の底に封印していたが、その封印を激はあっさり解いた上で誘ってきた。
 あんな地獄の鍛錬の後で体力が残っている者はそういない。
 ましてや祭りに出かけるとは……。
「生憎その日は、予定が入ってまして」
「申し訳ございません」
「どうしてもその日だけは……」
部下たちは、次々に首を振った。否定的な言葉が続いて、次第に激の顔が悲しげな色を帯びてくる。部屋にいる隊員数十名全員に断られるとは、彼はまったく予想していなかったのだ。
 一人くらい、一人くらいいるだろ普通……。
 しょぼん、と隊長の眉毛が八の字になる。
「…………一人じゃ、祭りはつまんねえんだよなぁ……」
背を丸めて隊長はとぼとぼと引きずるように体を運んでぺたんと椅子に座った。届いたばかりの武器を見ても、全然嬉しそうにしない。一瞥をくれただけで、すぐにそれは嘆息の中に消えてしまった。一番楽しみにしていたのは彼だったというのに。
 くにゃり。
 一番立っている髪が凹み、思わず心動かされた隣の部下が口を開いた。
「ほ、他の隊はどうでしょうかっ!?
 我が隊は駄目そうですけど、零武隊中探せばあるいは……」
はっ、と顔を上げた。まるで水を吸う高野豆腐のように、見る見るうちに元気が溢れてくる。
「そっかぁーっ!
 じゃあ、俺ちょっと残っている奴等に声かけてくるわっ!
 わりいけど、武器の手入れ頼んだぜっ」
思い立ったが吉日。とばかりに、隊長は叫びながら部屋を後にした。
 やはり我が隊の隊長はこうでなきゃ……と胸を撫で下ろし、再び意味のない整備作業に没頭し始めたのである。



 「十日? ……無理だな」
「俺も無理だ」
「お前らもかよぉぉおぉ〜」
最後の頼みの綱だった真と炎は、あっさりと首を横に振った。
 陸軍特秘機関研究所の上から下までくまなく走り回り、とうとう動きつかれた激は、ばたんとその場に倒れて涙を流す。
 ほぼ隊員の全員に声をかけた。
 地下倉庫の下にある可笑しな研究室に籠もっている丸木戸教授まで声をかけたのだ。だが、誰もが予定が詰まっていた。普通の隊員は体力測定があったし、研究員側は現在仕事が忙しすぎるのだという。日明大佐にも一応声をかけてみたが、凄まじい迫力で睨み付けられた上仕事を与えられそうになったので慌てて戦略的撤退を選ぶ他なかった。どうやら『普段仕事してないんだから今更サボったって同じでっすよ。祭り行きましょ!』という言葉が彼女の怒りの引き金だったらしいのだが、事実を言っただけなのでどこが悪いのかはよくわからない。
 それはさておき、最後の最後に、僅かな期待をかけて炎と真を探した。
 この二人の忙しさは、零武隊では間違いなく一位だ。
 隊長が日常生活がまともに送れない駄目っ子なので、零武隊の通常運営の全ては彼らに掌握されている。帝都を初め日本各地の情報を調べ、帝に害をなす存在がないか監視し、情報操作等を行い、その一方で隊員たちを稽古させ、武器を手入れし、新しい武器の開発を進め、万が一の事態に備える。単純そうで非常に難しいこの安定的な状況を維持するのは、彼ら二人なのだ。
 忙しいのは知っている、でももしかして……
 と藁にもすがる思いで聞いたが結果は駄目であった。
 えぐえぐと泣きながら床に横たわる白服があまりにも哀れで、真も炎も無視をするのは気が引けた。こういう時、激隊員は凄いな―――と一般隊員たちは思う。何でもかんでも問答無用のごり押しが通るこの零武隊の中で、彼しか使えない技だ。しかもこの技は、時と場合と運の全てが揃うと、あの人間外の隊長にすら通用するのだという伝説すらある。
「その日の夜暇なのは(白服の中では)現朗とお前だけじゃないか」
炎は書類の端を整えながら思い出したように呟いた。
 がばっ、と音でも聞こえそうな勢いで顔だけが持ち上がる。
「現朗かっ!
 忘れてたっ」
「わすれ…………」
真は思わぬ同僚の不穏当な発言に冷や汗がたれるが、それには気づかない。激はとっくに、タイムサービスの放送を聞いた賢い主婦の如く、一陣の風となって走り出していた。

 ありがとよぉぉぉぉ……

 数秒遅れで届いてきた小さくフェードアウトしていく声を聞きながら、二人は顔を見合わせてため息をついた。



 「現朗ぉぉっ。現朗はいるかっ!?」
鉄男が顔を上げると、金髪の上官は静かに書類を作っていた。確かに今、戸口のところで上官の名前が呼ばれた気がするのだが―――
 不思議そうな顔をしている鉄男の横をずかずかと通って激がやってきた。
「よ。現朗」
「なんだ」
書類を書いている手を止めて、金髪は睨むように顔を上げる。敵意剥き出しの彼に、すごいテンションでやってきた激の肝は一気に冷えた。まあ、よく考えればまだ仕事中のこの時間に、いきなり祭りの誘いをするのもどうかといえばそうかもしれない。―――と、激は今更になって自分の行動を反省するが、来てしまったからにはしょうがない。
「あの……ええと。と、十日の夜、仕事、ないんだろ?」
なんと切り出せばいいが迷いながら、言葉を選びつつ尋ねる。
 が。

「仕事をしないつもりだが何か?
 俺が仕事をしないで休むのがいけないのか。
 毎日残業してなければならんのか。
 これで俺は給料泥棒で零武隊には無用の長物だと蔑むならば、お前の勝手だ。好きにしろ」

返答は、激の予想をはるかに超えた驚くほどの喧嘩腰だった。
 明るいだけが取り柄の青年は一瞬挫けそうになったが、ぎりぎりのところで堪える。
 残る望みは、彼しかいないのだ。
 祭りは誰かと一緒でなければ嫌なのだ。
 ここで負けてなるものか、と荒く鼻息を出して気を興す。
「いや、その、それでさ。
 そこに、予定とか入れてる?」
金髪の同僚の気を少しでも和らげるために、無理やり笑顔を浮かべた。
「入ってはいないが何か?
 それが問題でも?」
「いや、問題とかじゃなくてさ……。
 うぅぅ、え、ああ、あそこの八幡様でお祭りがあるの、知っているか?」
「知っているのが悪いか。
 俺が仕事中にたまたま外に出たときに張り紙の一枚を目にするのが、お前はそこまで不満なのか」
「ふ、不満じゃねえよ。いや知ってるなら話が早いんだが」
「早いならさっさと言えばいい。
 なんだ? 邪魔か。俺が零武隊で、とりあえず指揮を取る地位についているというのが目障りで仕方がないというわけか」
ぷつん。
 物凄い攻撃的な応答に、気の短い激のどこかが崩壊する。
 拳を唸らせて机を叩く。ばんっ、と部屋全体に響く音に、部下たちの注目が一気に集まった。
「だぁぁああぁら、もうっ!
 その八幡のお祭りに、一緒に行かねえかって誘おうと思ってんだよっ!」
地団駄を踏みながら、子供のように声を荒げている。
 部下たちはあまりの状況に一瞬目を瞠ったが、すぐに見てはならなかったもの見たとばかりに首を下げて各々の仕事に戻った。勿論、振りにすぎないが。聞き耳をしっかり欹てておきながら、いつでも逃げれるよう体の体勢を整えておく。
 激が傍にいるときの現朗は、超要注意状態なのだ。
「では、待ち合わせの場所と時間はどこにするのだ?」
と。目の前の大きな子供が暴れているのを無視して、現朗は淡々と尋ねてきた。
「どこだぁぁっ!? 祭りに行くんだからそばに決まってんじゃねえかっ。
 畜生、一人じゃいやなんだよぉぉ―――
 ―――って、あれ? え、 えええええ?」
 思ってもない言葉に意識がついてこれず、大きな垂れ目をぱちくりとさせる。
 今、確かに聞こえたが―――。
 自分の記憶が信じられなくて思いっきり混乱する激の前で、現朗は書類にがしがしと署名をしていた。
 誰も喋らないので、部屋中の空気が重いくらいに静かになる。二十畳はあろう大部屋にこれだけの人数が揃っているのだから、非常に不自然だ。隊員たちの緊張は最高潮に達していた。
 その静けさの中、激は人差し指と人差し指をこすり合わせながら、おずおずと口を開いた。
「……お前、行ってくれるの?」
オソルオソル、という不思議な効果音を背負いながら弱弱しい口調で尋ねる。
「行かないと誰が言った」
「そっかぁ。良かった良かった。
 正門前の右柱に、六時半な。
 お、そうだ!
 折角だからさぁ、浴衣とか着ねえか? ゆ・か・た。持ってるだろ」
「持っとらん」
「えええええぇぇぇぇぇ―――っ!
 な、日本人の男として今までどうやって夏を過ごしてきたんだよっ」
「貸せ。お前のあまりを貸せ。
 俺のほうが背が高いから、大丈夫だ。
 大の男が小さいのを着ていても気にする輩はそう多くはない。信頼できる統計がある。安心しろ」
「小さくて悪かったなぁぁあ!」
その後二三言葉を交わして、待ち合わせの詳細を決めた。
 これだけお祭りを楽しみにしていたのだが、遅刻をしたのは見事に激の方だったのである。