1 挿絵 | ||
零武隊の屋根の上は自分の特等席だとばかり思っていた。 それゆえに、そこに気配があったので警戒をした。誰だ、と。 天窓から体をだし、見える範囲で目を凝らしたがやはり見えない。 「先に失礼しているぞ」 そこに、聞きなれた通ったその声が落ちてきたので、毒丸は本気で、驚いた。 日明蘭。 今の声を、間違えるはずがない。 彼は天窓から身を乗り出し、声の聞こえたほうへ向かって尾根を走る。予想通りのところに、白い軍服が屋根の傾斜にそって横臥しているのを見つけた。白い軍服は悠々と寛いでいた。 蘭が寝ていたのは、西洋の建築を真似た屋根の傾斜が一番きついところだ。青年はその上までやってきて、しゃがみ込む。 足の下では、上官が眉間に皺を寄せていた。見下ろされるのは好きではない。ましてや部下の、しかも年下となればなおさらだ。 「あははは。大佐もさぼりだー」 「だったらなんだ?」 不機嫌を隠さない声で言ったが、相手は億する色もなく横に下りてきた。 「いや。それなら俺もさぼっていーなーと思って」 「馬鹿を言うな。 後できっちり減給しておくぞ」 やめてよぉ〜と揶揄半分の声が聞こえてくる。 勿論冗談だし、相手も冗談であることをわかった上での応酬だ。彼の給料はもう下げられないラインまで下がっている。給料が低くなると自然行動範囲も狭まるので、最近の彼は大人しくなったという報告を蘭は思い出した。 とにかく零武隊で一番若く、最近入ってきた青年だ。先輩から良く可愛がられているようで、ことに鉄男が私生活の面でもきちんとみてやっているらしい。 何が大人しくなっただ。どこを見ている、凡暗どもが。 毒丸は蘭の真横に寝そべりながら、腕を頭の後ろに組んだ。 「いい天気だね」 言葉通り、雲一つ無い青空。まあ、それでも、実際は上空に薄く雲がかかっているのでまぶしすぎるという程ではない。天高い、秋の空だ。風は冷たく、時折あきあかねが目の前を横切った。 一時間以上前、あまりの天気のよさに、蘭は現朗が十秒目を放した隙に机の下に作っておいた抜け穴を通って逃げ出した。そして途中で鉢合わせした真と激を上手く巻き、鉄男を殴り倒して走った結果ここにたどり着いた。 その風の気持ちよさに、体を伸ばしながら思った。 ……秋だ。 当たり前のことを当たり前に思って楽しくなり、それから、感傷的な自分を自嘲した。 その後はゆったりとここで昼寝をしていたのだが。 「自分の仕事はどうした?」 「どうしたもこうしたも、きちんと逃げてきたよ?」 非常に面倒な闖入者が来た。 空を見るふりをして、ちらちらとこちらの表情を伺う視線が読める。 ……ったく。 舌打ちをしてごろりと彼と反対の向きに身を転がす。 「新入りが任務を怠るとはいい度胸だ」 「今のこの状況で何言われても説得力ないねー」 先ほどから必死に蘭を探す男たちの声が遠くから聞こえている。毒丸だけは知っていたが、屋根の丁度この位置だけは零武隊の官舎のいかなる場所からも絶対に見えないのだ。 絶好のさぼりスポットとして活用してたけど、まさか大佐が知ってたとはね。 あ〜あ。場所探さなきゃ。うん。どこがいいかな。案外官舎って逃げる場所少ないんだよな。困ったなぁ…… ひょいっと、毒丸の鼻にあきあかねが止まった。 くすぐったいとか考える前に、さっと空に戻ってしまう。 目を動かすと、黒い髪が見えた。 その黒い髪にも一匹の赤い蜻蛉が羽を休めていた。 色々と別の方向に思考をめぐらせようとどんなに努力しても、やはり、彼女が気になってしまう。 先ほど一瞬見えた白い首筋、そして長いその髪。黒い髪に隠されたあの芯の強い目。 あれに見られるだけで、心臓を鷲掴みされる錯覚を覚える。理由は二つ。一つは恐怖から。そしてもう一つは恐怖ではない、そのま反対の感情から。 手を伸ばせば届く距離にあると意識するだけで血が逆流してしまう。 ……俺の気なんて、知らないだろうけどさ。 尊敬している。 ―――なのに、何故こんな感情を持ってしまうのか。 おそらくこのような感情を、この鬼子母神の異名をとる女に抱いているのは、自分だけだと思う。そんな浅ましい思いを。考えてはならない想いを。 背徳感が胸を抉って、存在しない痛みが体を走った。自分は醜悪な存在だと思った。やってはいけない、おもってはいけないと何度も言い聞かせた。 なのに、その後ろめたい感情すらも、結局は思慕の思いを余計に募らせるのだから手に負えない。 「毒丸」 「な、何!?」 自分の考えに完全に浸っていたので、思わず声が裏返った。蘭は青年の返事など気にせず淡々と言う。 「強くなりたいならば、仕事はきちんと片付けろ。 仕事も一つ一つは修行だ。修行をおろそかにする奴は強くはなれぬ」 自分はさぼっているくせに、と思わないでもないが。 「…………はーい」 気づけば素直に返事をしている自分がいた。 嫌われたくない。 などと思っている心が自分には分かっていて、嫌になる。 好かれたい。強くなりたい。強くなって好いて欲しい。 なんて考えているのが知れたら、生きていけない。自分が汚らわし過ぎる。 「分かっているならいい」 蘭は言うだけ言って、昼寝の続きをしようと目を閉じた。その背中を見ていた毒丸の顔が、くしゃりと歪むのも知らないで。 俺のほうを向いてよ。 …………。 ……俺だけを見てよ。 すっと、青年が動く。それは滑らかに、秋の風に乗って、音もなく身を起こした。起こしながらそのまま蘭の肩に触れようと手を伸ばした。 だが。 素早く動いたつもりだったのに、蘭も手を動かして刀で男の手を防ぐ。その手は軍服に触れることなく鞘に当たって道を塞がれた。 蜻蛉たちはその攻防に気づかず二人の上を旋回し続けている。 あまりにも、静かだ。 いきなり。 青年の手を軸に刀を半回転させて、鞘の尻で彼の体を突いた。 それは軽やかな一撃に見えた。軽いと侮ってきちんと防御しなかった。が、ために、なんと、青年の体は思いっきりバランスを崩してふっとばされた。 「うひょおぉぉぉぉ―――っ!」 悲鳴があがる。扇風機の中心くらいの速度で回転していて、もはや人間業ではない。否、むしろ、人間ではないといってしまったほうが適切だ。 ここは屋根の上。 足場も悪いうえに滑りやすい。蘭の一撃は彼のバランスを完全に崩した。助けを呼ぶためではなく断末魔の悲鳴は官舎中を朗々と響き渡った。 彼女はさっと起き上がり、跳躍しながら下に向かって走り出す。 予想外に良く転がったなぁ、とのんきに思いながら、速度に全身を任せた。 目の前で、屋根の樋に当たって回転体(毒丸)が少し飛び上がる。 それからは、一直線に落下していくだけだ。 「ぴぎゃぁぁぁぁぁぁ―――」 回転体の騒音の質が変化した。蘭も軒端まで来ると、樋を蹴って垂直に落ちた。さっと両腕を伸ばす。二階付近で気を失っている青年を捕まえて小脇にかかえると、そのまま空気抵抗を身に受けながら落下した。 「大佐がいたぞぉぉっ!」 「あそこかぁっ!」 どすん、と、地上の重力を無視したように地面に降り立った。毒丸を地面へ下ろすと、降参とばかりに両手を挙げて佇んだ。 わらわらとその周りを数人が囲む。炎が、彼女の刀をさっと奪った。 「……大佐。お仕事の最中ですが、何か大事な御用でもありましたか?」 「すまん。あまりに空が見事だったのでな」 現朗が目を怒らせて進言すると、蘭は苦笑しながら言い訳をする。その笑みは部下の怒りをそらすためにつけてみたのだが、効果はなかった(むしろ逆効果)のですぐに止めた。 その間に、漸く毒丸も意識が戻り、周囲の先輩が手を貸して立ち上がらせる。それでも肩を借りていないと真っ直ぐに立てないらしい。 その様子を見ながら、蘭はぼそりと呟いた。 「……全てに於いて、貴様は百年早い」 それはどういう繋がりで言ったのか分からなかった。周囲の隊員たちは不思議そうな顔をしながら、後輩を見る。 毒丸は、上目遣いで爛々と目を光らせながら―――。 「今の言葉、覚えててよ。絶対ぎゃふんと言わせてやるんだから」 宣戦布告を叩きつけた。 「ぎゃふんくらい、すぐにでも言わせられるぞ」 現朗が毒丸に冷めた視線を送りながら口を開いた。新入りが仕事をさぼったことに、というよりは、大佐を匿っていたことに腹が立っているのだ。激の肩を借りながらふらふらしていた毒丸は、すまなさそうに肩をすくめた。先輩が本気で怒るときは本気で怖い。何度かこの逆鱗に触れてぼこぼこにされたことがある。 現朗は後輩のその様子に満足して、蘭のほうに向き直った。その顔に、彼女ですら息を呑んだ。 真っ白な秀麗な顔から。 一切の感情が失せていて。 しかもありえないはずなのに、絶対、間違いなく、瞳孔が開いている。 ……浮世絵の残酷画に出てきそうな顔だ。 「先ほど黒木中将から予算報告書の不備について素晴らしいくらい長いお電話と大量の書類を頂きました。早速一昨年の分から洗いなおしていただきます。さ。部屋に戻りましょう。必要なものは多大な余暇を頂いたので完璧に出来てますから逃げ出せると思うなよこの駄目っ子上官。秘密の通路を机の下に作れて満足か、エエ? じゃあ次は抽斗の中にい次元空間への入り口とか作って悦に浸ろうとか考えているんじゃないだろうな。教授で遊ぶのは俺は気にしねえがいい加減自分の立場分かってくれ。というかわからせてやろうじゃねえか俺が。いいか。いいよな。嫌とは言わせんぞ」 彼の言葉遣いが凶悪になるのに比例して蘭の顔から血の気がざぁーっと引く。 音が聞こえるくらいだ。 逃げ出そうと周囲を見回すが、刀は取られたうえに四方を屈強な男たちで囲まれ、なおかつ全員既に鞘から刀を抜いていたりする。 「大佐ぁ〜。 ぎゃふんって言ったら昼飯におにぎり出してあげるぜ?」 激が爽やかな笑顔で鬼畜な言葉を言ってきた。 「いや。ぎゃふんと言えたらお茶一杯飲むのは許してやろう」 と、炎が言えば。 「そんな優しいお言葉をかけてどうする。 ぎゃふんと言えぬようならば夜間も一睡も眠らせん、くらいにしろ」 真が反論する。だんだん酷くなる条件に、さしもの蘭でも冷や汗がたらたらと流れた。三方を取り囲む隊員たちも恐ろしい気を放っているのだが、なにより、眼前の現朗はとんでもなく怖い。 現朗がどんな条件を持ち出すのか、毒丸は少しだけ興味を覚えた。 じりじりと間合を詰め寄ってくる。下がろうにも、後ろは真が迫ってきていた。 彼女との距離が二十センチくらいになった。 そして。 現朗が口を開く。 「ぎゃふんと言って頂ければ、少しは…… …………………… …………ククっ……クククククク…… 大目に………………見てあげますよ」 彼は含み笑いで隠して、条件を、言わなかった。 その言動が一番彼女の恐怖を誘った。 数秒後、小さな震える声でその言葉が発されたのは、書くまでもない。 |
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