・・・  鬼の所業  ・・・ 


 白無垢に包まれて大人しく座る娘は、掛け値なしに、綺麗だった。
 衣装がいつもと違う所為だけではない。彼女ももういつのまにか大人になっていて、今夜から男の妻となるのだ。角隠しから零れる表情は少し不満そうだったが、それは照れ隠しではなく緊張しているのだろう、と八俣は思った。
 横に座っている友人の飛天は、なにやら非常に感傷的になってしまったらしく、先ほどから鼻をすすったりして胸の奥底から沸き起こる何かを堪えるのに必死なようだ。だが先ほど不意をついて零れた涙を隠れて拭っていたのを八俣は実はしっかり見ていた。
 顔に似合わず、感情的なのだ。この男。
 全く、結婚するというだけで、何が変わるというわけではないのに。
「ったく。
 まあ、なんというか……よくまあ育ったもんだぜ。道場に入ってきたときは豆ダヌキみたいで、女らしさなんて微塵もなかったのによぉ」
まるで嫁の父親みたいな台詞を漏らしては、寂しそうに溜息をつく。辛気臭いことこの上ないが、友人は面倒なのでツッコミをいれず放置しておくことに決めた。何せ、こんなおいしい料理と上等な酒を無料で貪れる機会はそうあるものではない。
 天井は朱に塗られ、襖絵は金をあしらった豪華な一品。だがもう、この広間には十数人しか飲んでいなかった。
 日明と蘭の祝言の儀が終わり、宴会は神社の近くの二階建て料理屋を貸しきって開かれた。通常祝言は婿方の家で執り行われるものだが、二人とも軍の関係者で招待客が非常に多く、かつ、一人は零武隊の隊長という特殊性もあって、あえて当世風を取り入れて神社や料理屋に依頼したのだ。それは、良い判断だった。
 宴会場の料理屋は一階に大広間が二つ、二階に個室が八室ある。八俣も苦手な軍部の上部と顔をあわせることもなく酒にありつけたし、警視総監以上に軍部に嫌われている零武隊隊員たちも部屋を隔離して宴会を開いている。飛天と八俣は新郎新婦が並ぶ親戚が集まる大広間の奥隅で、二人きりで酌み交わしていた。
「どうやら大方の挨拶は終わったみたいね。
 じゃ、あたしたちも一応言葉をかけに行く?」
「あん? まだいいだろ」
いつのまにか、外は真っ暗の闇になっている。つい先ほどまで夕暮れだと思っていたのに、時の経つのは早いものだ。
 そろそろ宴もたけなわなようで、飲んでいる人数も限られてきた。蘭と日明の親族が酔っ払って楽しげに話している声高な声が、部屋の隅のここまで聞こえてくる。彼女に家にとって軍の中枢の一角を担う日明家の縁談なんて願ってもない幸運だ。
 いつまで経っても酒を飲み続けようとする友人に痺れを切らして、八俣が立ち上がった。
「行くわよ」
「あー、そーか?
 じゃ、俺はちょっと遅れていくわ。もう一口飲んでからな」
飛天が口をつけた杯を、八俣はひょいと取り上げた。何をする、と見上げるとそこには赤い隻眼が輝いてにらみつけている。
 心の奥底を見透かすその光。
 一瞬飛天の動きが止まったのを見計らって、彼は口を開いた。

「いいから、行くぞ。
 ……ったく、大人気なく拗ねるな」

ぴくり、と飛天の眉が動く。
 完全に図星を指された。言い訳も、反論もしようのないくらい完璧に。拗ねている。……そう、拗ねているのだ。あの小さくて煩く賑やかなあの弟弟子が誰かの嫁になることが、面白くをなくてたまらなかったのだ。
 後ろ頭をがりがりと無意識に引っかく。
 八雲が顎を軽く動かしていくように命令すると、どうしようもなく、大男は渋々と膝を起こした。


 *****

 近づいてくる二人の友人に気がついて、日明は可愛らしい花嫁に耳打ちをする。蘭が首を上げると、なんだか嬉しそうな水色のオカマ(だが普通の燕尾服を着ている)と、なんだか不満そうに口を真一文字に結んでいる生臭坊主(だが普通の燕尾服を着ている)がやって来ていた。しかも坊主の方は、身体が痒いのか、頬をかいたり頭をかいたり尻をかいたりせわしない。異様な隻眼の男たちに親戚たちは一瞬微妙な空気が漂ったが、すぐに双方の両親が飛天と八雲の名を呼んだので場は和んだ。幼少の頃からの付き合いだから、互いに顔は知られている。
「この度は本当におめでとう。良い祝言だったわね」
「ありがとう」
「…………おめでとう」
「飛天もありがとう。ほら蘭さん、ちゃんと挨拶を」
「このタビはワタクシタチのシュウゲンにゴソクロウイタダきマコトにアリガタきシアワセにございますこれからもスエナガクゴハイリョのほどヨロしくおネガいイタします。
 以下略っ」
棒読みでそう言い放つと、蘭はぶぅと頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。いつもなら義と道に外れたことをすれば殴ってでも言うことを聞かせる日明だが、どうやら今は甘やかし真っ最中なのか、にこにこといつもの笑みを浮かべて友人たちへ言うだけだ。
「あ。ゴメン、さっきから不機嫌なんだ」
「見てたぞ。見てたんだからな。無料酒だからって豪勢に飲みおってっ! 飲めない私の前で、飲めない私の前でぇぇぇ……ううう、覚えてろよーっ」
「はいはい、蘭さんはよく我慢しているねぇ。
 明日にはたくさん飲ませてあげるから、もうちょっとの辛抱だ」
完全に子ども扱いされているのを咎めず、蘭ははずるいずるいと呟いて、日明はあの手この手で懐柔している。
 その膨れ面、本当に酒が飲みたかったのだろう。酒が飲みたいが所為で子供化してしまったようだ。普通祝言といえば嫁は緊張して黙っているものなのに。まったく、蘭らしい。
 二人のやり取りがあまりにいつものようで、それは道場や四人でつるんでいたときに良く見たものだったから、思わず、飛天の気が殺がれた。

 ああ、そうか。そう、だって、夫婦になったからといって、彼女がどこかへ行ってしまうわけでも、変わってしまうわけでもないのだから。

 ―――ふふふ、と自然と笑いが零れ落ちる。
 その声を耳ざとく聞きつけた彼女は、鋭くたれ目で睨みつけてきた。
「何だ。何が面白いんだ。筋肉達磨っちょ」
「なんだダルマッチョってのは。
 つーか、一生一度の大事な行事だっつうのに、大人しく出来ねえんだなぁおめえは。折角の着物が台無しだぜ」
「はっ。ヒヒが着た方がもっと似合うぞ、お前の燕尾服?」
「ああん。相変わらず口が悪いなぁ。
 祝言の意味わかってのんかぁ?」
うむ、と蘭はこくりと頷いて、堂々と言い放つ。

「建前だろ」

 メゴッ。
 電光石火の速さで後頭部を叩かれる鈍い音。彼女の前に一瞬星が散る。
 この痛み、普通の痛みじゃない。気づかない親たちのどんちゃん騒ぎがなんだか遠くの方で聞こえる、ような気がする。意識が遠のいていきそうになるのを自覚しながら、気力で、なんとか、必死に現実に留まった。
 八雲と飛天は口元を押さえて噴出すのを堪えたが、目はにまにまと笑ってしまう。大爆笑している心の声が、涙を堪えて震える蘭の胸の裏にびしびしと伝わってきた。
 痛くて、痛くて、痛くて、痛くて、痛くて―――思考が纏まらない。

 うううぅ、筋肉達磨っちょどもめぇぇ……

 目尻に溜まった涙を拭うことなく、深呼吸で興奮状態になった神経を宥める。それにしても、殴られた場所がずきずきとする。白無垢で触ることが出来ないが、凄い怪我になったんじゃないか、と思った。彼女の予想通り、大きなタンコブがそこに出来上がっていた。
 蘭が完全に復活する前に、紋付羽織袴の男はすばやく全身を動かして花嫁と向かう。
 その両肩に手を置き、優しそうに微笑んだ。
 遠目で見れば、仲睦まじい夫婦の絵。
 ―――が、蘭はその張り付いて強張った笑みを見た瞬間、痛みすら吹っ飛んで姿勢を正してしまった。

「……きちんと、夫婦に、なるための、大切な、儀式、だろう? 蘭さん」

なんか怒っているのかも。
 ―――そう判断すると、早かった。
 また殴られるのは真っ平御免だ。日明たちには叱られたくないと本能に書き込まれている。 それに、親戚たちは自分の酒に集中してこちらの様子には気づいていない、止めてくれそうにもない。
「だって、日明とは、その……もう一緒に住んでいるじゃないか」
言い訳がましく上目遣いで言うと、ぴくり、と花婿の口元が引き攣る。
 日明の動かない瞳が、蘭の目を篭絡した。
 なんだか、掴まれている肩が、さっきよりも痛くなっているような気がする。
「確かに、一緒に住んでいる。けれど、一緒に住んでいるのはただの家族だ。
 それ以上の意味があるだろう? 祝言には」
ゆっくりと含ませるような声音でそう男が言う。
 だが、彼女は良くわからなくて、暫くは雰囲気に呑み込まれていたが、おずおずと尋ね返してきた。
「……家族じゃ、駄目なのか?」
「ああ。駄目だ」
「なんで?」
なんで、だって?
 日明は心の中で反芻して怒りを加速させる。なんでじゃない。今まで、夫婦にならないから今まで色々と我慢してきたのだというのに。
「家族じゃ駄目だ。夫婦でなければ出来ないことがある。一緒に住んでればいいなんて、そんなの許されるわけないだろう。君が妻になって、俺が夫になったら―――」
そこまで口にして、日明の口が止まった。
 ―――なったら、何をしなければならないかを、どうやってこの可愛い花嫁に説明してやるのだ?
 夫婦になっての共同作業といえば、初夜、だ。
 後悔してももう遅い。
 ゆっくりと首を回すと、思っていた通り、横の友人たちが先ほどとは違った意味合いで笑いを堪えている。察しのよい奴らのことだ、わかっていて日明の暴走を止めなかったのだ。親戚たちには聞かれずに済んだが、ついつい場のことを一切忘れて本気になってしまった。
 苦笑を浮かべて睨みつけると。
「あら、やっぱりお楽しみにしてたみたいねー」
「あははははは。顔はアレだが考えていることは桃色一色か」
「…………はっはっはっは。殺す」
『おぉぉぉ怖っ』
紋付袴で初夜直前の男に凄まれても怖くはない。いくらでも逃げ出せる。こんな機会は滅多に無いと、二人は尚も言い募ろうと口を開きかけた。

「あ、そうか。跡継ぎを作るんだったな」

 ―――鶴の一声。
 びし、と凍った音まで聞こえてきそうなくらいカッチリと、三人が目を剥いて硬直している。毛一本、眉毛一房、動かない。というか動けない。
 飛天も八雲も、夫となったばかりの日明までも、が。
 きょとん、という愛らしい効果音を背負って、蘭は小首を傾げた。
「何か違ったか?」
ごくり、と生唾を飲み込んだ飛天がその問いに答える。一番回復が早かったからだ。
「いや、違わねーけど。
 ……お前が、その、そういう事を、口にするとは……ええと」
「何を言う。
 私ももう大人だぞ」
言った本人ではなく飛天の方が顔を赤くして、言葉が出なくなってしまった。
 彼女は軍に入り少佐の地位についているのだ。純情だとか無垢だとか、そんなこと、あるわけないのだが。
 ―――ないのだが、何故だかわからぬが、冷たい風が胸を通り抜ける。
「だから、日明、今夜は頑張ろう?」
嗚呼、頼むから、言うな、と切ない目をしている飛天に彼女は気づかず、無邪気にもその話を夫に振った。まだ動揺が消えない日明は、声が出せず、ただ首を縦に振っただけだった。
 蘭が再び飛天の方へ向き直った。

 悪戯っ子のような笑みと、ふてぶてしい垂れ目はいつものままなのに。
 桃色の頬と、赤く染まった唇は、別の生き物のような気がする。

 そこに色香があるなんて、死んでも認めたくない。
 蘭の愛らしい唇が、動く。
 動悸が早くなり、男の胸中は散り散りになって悲鳴を上げる。
 止めてくれ―――




「キャベツは植えたことがないが、植物を育てるのは得意だっ」


 *****

 「いや、お前、このままのこいつにやるのは反則だから。
 駄目だから。
 犯罪と変態入っているから」
ひしっと飛天は白無垢ごと蘭を抱きしめてぐりぐりと夫から引き離そうとするが、夫もそれを逃してやるほどの人格者ではない。白無垢の裾ごと彼女の足を握り締めて妨害する。
 とりあえず飛天は蘭を別の部屋に連れて行って、キャベツから子供は生まれないことだけは伝えてやろうと思っていた。それが兄弟子としての最後の勤めだと思う。いや兄弟子でなくとも、幼い頃から成長を見守ってきた一人の男としてこのままむざむざと日明の毒牙にかけられるものか。
 わけのわからない蘭はとりあえず事態に身を任せているらしく、飛天の中で逃げ出そうとはしていないが、日明の手を痛いともいわないで置物の狸のように黙って固まっていた。
 昔からこの兄弟子同士はわけのわからないことで揉めるのだ。それには放置が一番だ。
「いやいやいやいや。
 だって、ほら、十年越しの願いなわけだからオマケ付きでもいいじゃないか」
「なんのオマケだっ。
 ちょっと説明するだけなんだよっ」
「えー。
 教育は俺の役目だから小汚い手を蘭さんから放して」
目尻の下がったまま、さらりと日明は空いた手で飛天の腕を掴む。そこにおぞおましい力がかかったが、飛天は血管を額に浮かべながら堪えた。
「は、な、す、かぁぁぁっ!」
八俣は傍観者を決め込んでいた。
 どうせ、日明の意志に敵うわけがないし、生贄はもう十年以上前から決定されていたのだから、この結果は人が逃れることの出来ない『運命』だ。
 ある種悟りを開いた彼は、一週間後、同じことを思う羽目に陥る。
 『キャベツ作り』に耐え切れなくなって逃出した蘭が家に転がり込んできて、それを連れ戻しに凶悪なオーラを立ち上らせた日明がやって来た。
 二人が家の中で騒動を始めたときには、八俣は玄関にいた。
 透き通った青空を仰ぎ見る。扉一枚隔てた家からは、他人の家で激しく夫婦喧嘩をする声と、何かが壊れた音が響いてくる。命の危険を避けるためには、自宅を棄てる外なかった。全ての音が聞こえなかったことにして、彼は、同じことを思って無理矢理己を納得させた。

 この結果は人が逃れることの出来ない『運命』だ。

 ―――と。