・・・  珍獣観察  ・・・ 

 「なあ。丸木戸君。
 アレはどうなっているんだ?」
その不思議が一杯といわんばかりの無垢な顔に、眼鏡の医師は軽い眩暈を覚えたがそれをぎりぎりのところで踏ん張って、眼鏡をかけなおした。スチャ、と知的な音を立てながらため息をつく。
「……ご子息をアレとはないでしょう。
 流行性耳下腺炎、まあ巷ではおたふく風邪と呼ばれています。
 誰もが罹る病気です。普通は十二歳くらいまでには罹るんですが……天馬君はまだだったみたいですね。大人で罹ると厄介なんですよ。まだ十四で良かった。
 特徴は顔が腫れることです。耳の下が膨らんで、顔面全体に疼痛が起こり、発熱と頭痛を併発する。触ると痛いので冷やしたままそっとしておいて下さい。……今の状態でいいです。
 下手をすれば命にもかかわりますので、二週間くらい絶対安静ですよ」
「一週間でなんとかならんのか?」
「なりません。
 馬鹿なことをしたら一生の傷になりかねませんので」
蘭の性格をよく把握している丸木戸は、そこはきつく言っておく。
 病気を軽んじて天馬を仕事に引きずり出したら大変なのだ。馬鹿なことってなんだ、とぼそぼそと蘭は呻いている。
「大人しく……いいですか、くれぐれも大人しくしていてください。
 何もしてはなりません。
 大佐が看病なんて以ての外ですからね」
ぎらり。
 眼鏡が縁側から取り入れられた光に反射して不気味な光を帯びる。
 蘭は面白くなさそうに肩をすくめて、そして視線を畳に横たわる息子に移した。
 襖をはさんで隣の部屋に布団が敷かれ、黒い髪の青年が死んだように眠っている。顔は赤く、首の下が膨れ、普段の優しげな面影はそこにはなかった。ぷっくりと丸く膨れている。わずかに聞こえる息遣いは荒い。額の上に乗せられた濡れ布巾は先ほどから女中がかなりマメに取り替えられている。
 おたふく風邪。
 ―――その呼称は知らなかったが、勢いあまって訓練に連れ出さなくて良かったなと蘭は腕を組みながら素直に思った。
 朝から天馬の様子はおかしかった。動きに切れがなく、焦点もぼけていた。いつも体術を用いて紙一重でかわすはずの攻撃もわざわざ刀を使わなければ避けられなかった。顔が赤く、そして朝食が終わった後に急に顔の痛みを訴え始めたのである。
 「日明家の者の癖に泣き言かぁっ! その根性たたきなおしてくれるわっ」と首筋をつかんで庭に引き摺りだそうとしたところを家の女中たちに止められてこの部屋につれてこられた。女中たちの意見で、教授の判断を待った上で行動せよと命令されたのである。女中は長く日明家に仕えている。嫁に入った素性の暗い蘭は、彼女たちには口答えは出来ないのだ。
 蘭はやきもきしながらこの部屋で息子を睨み付けながら悪友の到着を待っていた。
「……ったく。
 弛んでいるからおたふく風邪とやらに罹るんだ。
 軟弱者めが。治ったら徹底的に鍛えてやる」
むすっとしながら彼女がぼやいた。
 その言葉に、一瞬丸木戸は嫌なものを覚える。
「おーい。……ちょっと待ってください。
 大佐、おたふく風邪罹ったことないんですか?」
「当たり前だ。
 そんなものかかる程精神的に弛んではおらん。
 だいたい、生まれてからこの方、病気で寝込んだことはないっ」
彼女が宣言し終わると同時に、隣の部屋に一人の老婆が入って天馬の濡れ布巾を変えている。
 そうでなくとも大佐の声は良く通る。その言葉は老婆にも聞こえていた。
「そうですよ。
 奥様は一度も病気は患っておりませんし、おたふく風邪も勿論なさっておりませんよ」
淡々と、彼女は昔からよく来た蘭の友人に良く聞かせるように言った。
 すっと丸木戸の血の気が引く。そして、慌てて老婆を詰問した。
「―――い、家の方々は大丈夫ですよねっ!?」
「大丈夫です。
 布団はすでに用意しておりますのでご安心を」
「……何が安心だ? あやね殿。
 丸木戸君、どういうことだ?」
「何度も申した通りおたふく風邪は誰もが罹る病なのですよ。飛沫感染でも接触感染でも伝わるくらい、感染力は非常に強力です。
 一度罹れば免疫が出来ます。だいたいの方は、幼いときにかかって免疫をつけておくんです。
 ……だから、その、一度でも罹っていれば良いんですが……」
「はっきり言え」
丸木戸は答える替わりに彼女の額に手を当てた。
 一瞬目を見開いたが、特に反撃することなく大人しくしている。
 よく見れば、今日の彼女は普段の切れがなく動きがどことなく鈍い。目は熱っぽく潤んでいて、目の周りがほのかに赤い。そして何より、手が伝える温度はいつもよりも確実に高い。

「…………顔、痛いかもしれん」

言葉がまとまらずに唇を震わす教授が声を発するよりも先に、ようやく理解した病人が口を開く。
 そのとき初めて蘭も理解した。
 ―――発熱という症状。
 ―――眩暈という感覚。
 ―――何もかもが初めてだから気づかなかったのだ。
 自分が生まれて初めて病気に罹ったことに。


  *******

 布団の中で丸くなって、しくしくと泣いている。
 二人が発病してから三日後、天馬はすっかり回復し、丸木戸から『いやほんと、人外魔境ですねー』という有難くないお墨付きを貰って零武隊に出仕した。が、息子が治って一日しても熱が引かなかったのが、蘭の自尊心を傷つけて完全に打ち砕いたのであった。
 大人になればなる程症状が重症になるのだから、仕方がないんです。
 ―――教授は何度も言い聞かせたが、それで納得できる女性でないことは誰もが知っている。顔は腫れなかったので天馬のように面白げな顔になることはなかったのだが、上半身が常に痛くて、熱で真っ直ぐ立つことすら出来ない。それよりも前に、初めての病気という異常状態で彼女の判断力と理性は今までないくらいに弱っていた。
「いいんだ。
 どうせ、私なんて。
 おたふく風邪ごときで五日も寝込んだって後ろ指さされて哂われているんだ。そんなの知っているんだ」
と誰も聞いていないのに先ほどから延々と泣き言を述べているのは、やはり熱のせいであろう。
 布団で包まっていると、嫌な事ばかり思い出して涙が止まらない。流石に五日間ずっと寝ていたので、太陽が昇っている間は眠気はなかなか襲ってこなかった。目を閉じるのにすら飽き飽きしていた。
 眠れない、だけなら良いのだが―――

 ―――なぜだろう、無性に人が恋しくなる。

「日明たーいさ」
すぱーんと頭上の襖が開いた。
 ぎょっとしながら蘭は目をあげる。普段、そこは使われていない部屋のはずなのに。
「……中将?」
さらさらした長髪ににやついた目。自分の記憶が正しければそれは三浦中将(名古屋在住独身垂れ目)だろうが、何で彼が現れるのかよくわからないので、別人という可能性を考慮して半疑問系でつぶやいた。
 だが、まあ、蘭の記憶は正しかった。
 つまり、名古屋から仕事で帝都まで来た三浦中将は、零武隊の女傑が寝込んでいるという面白い噂を聞いて、予定を切り詰めて見舞いにきたのである。
「おおっと、やはりこの部屋がアタリでしたか。
 おやおやきちんと寝ているんですね。こりゃ可愛らしい寝巻きで。
 寝込んでいる日明大佐を見ないで帰るには、奮発した土産代が勿体無いですから良かったよかった」
土産代?
 蘭はぱちくりと瞬かせる。
 後ろから三浦を追ってきた女中たちはその襖を開けられたのを見て、遅かったと立ち止まった。
「……三浦様、どうか主人はまだ病人ですので」
「わかってますよ。
 病人を興奮させないようにしときますからご安心下さい」
さらりと長い前髪をかき上げながら、後ろに向かって微笑む。軍人には勿体無い美顔に、女中は一瞬気後れしてしまう。
 その隙に襖を閉めると、三浦は蘭の顔の傍にしゃがみこんだ。
「……眠れる姫君、ですね」
「死にきたか?」
くくくく、と三浦は喉の奥で笑った。
 刀もなく、立ち上がることすら出来ないのに、威勢だけはいつもの通りとは。
 愛しさを覚えると供に、元気そうでなによりだと思った。
 実は、何人も蘭の見舞いに来ていた。あの鬼子母神が寝込むというのだから面白すぎて見に行かないわけがないのだ。しかし、女中たちは土産を取るだけとって門前払いを繰り返していたため、彼女だけが知らなかった。見舞い客の中に刺客が紛れていたら困るというのが表向きの理由で、本音は主の知り合いは得てして日明家に迷惑以外齎さなかったという経験からの行動だった。
 三浦も勿論帰るよう促されたが、手洗いを借りるという名目で上がりこんでこの部屋を見つけ出したのである。
 しかし、まあ原因はともあれ、蘭にとっては生まれてはじめての見舞い客であることには違いない。
 そうとは知らず、三浦はにやりと笑っていつもの調子で軽口をたたいた。
「流石の日明大佐も病気には形無しですねー」
食って掛かるだろうと予想してうきうきと待つ。
 が。
 病気で塞ぎ込んでいた上に、初めての見舞い客から心配も憐憫もされなかったことに、彼女の心がずきりと痛んだ。
 病人はぷいっと顔を背けてしまった。
「……好きに笑え」
言うだけ言って、くるりと布団を被って丸くなる。
 その予想外の行動に、少しばかり焦った。
 自分好みの可愛い反応ではあるが、病人を苛めたとあっては後味が悪いではないか。
「い、いやいや。笑いませんって。おたふく風邪なら仕方がないですから。そういうものですよ。
 大人になってから罹るとあなどれないんですよー。なのに五日でこれだけ元気そうだというのは凄いと思います。
 おや、そういえば、おたふく風邪なのに頬が膨らんでないですね。素晴らしい。流石鬼子母神と陰で言われて後ろ指をされれているだけはありますよー。いやあ、常人とはかけ離れてます。みんな心配しているんですよ、本当に」
ぴくり、と布団饅頭が動いた。最後の、『心配している』の一言が蘭の胸にきゅんときた。
 ……本当に、心配しているのか?
 おろおろとうろたえる三浦に、声がかかった。
「…………お前は罹ったのか?」
小さな声。
 やった、とガッツポーズをとってから即答する。
「勿論、罹りましたよ。子供の頃に」
「それで、寝込んだよな?」
「ええ。結構重病でしかたからね」
一語一句に気を配りながら答える三浦の前で、ひょこっと布団から半分だけ顔が出た。

「―――五日も寝込んだか?」

おずおずと問いかける。探るような、自信のない目つき。人に慣れない猫が頑張って甘えようとしているような、何ともいえない目をしている。
 その些細な仕草がどれだけ可愛いか、本人だけが知らない。
 そうか、そんなことが心配だったのか……っっ!
 壊滅級のラブリーさに鼻血が出ないよう理性で心臓をコントロールしつつ、三浦は胡散臭い笑みを浮かべた。
「五日どころか半月寝てました。
 こう見えても昔は弱くてね、母と父を困らせたんです。
 まあ、ある程度大きくなってからは丈夫になったのですが。長男だったので、下の面倒をみていたんですよ」
言いながら、三浦はごく自然な動作で大きな手をそっと胸の辺りに置いた。
 何をするのだろう、と病人は大きな眼でじっとそれを見つめていた。警戒しているのではなく、本当に、何をするのかわかっていない目だ。
 男は、ゆっくりと、心音に合わせて叩き始める。ぽん、ぽん、と心地のよい音。その音を聞いているだけで気持ちが穏やかになる。しかも今は布団の中で、病気中。ふわりとまろやかな眠気が彼女を包み込んだ。
 ―――客人の前で……っ
 と、意識の奥底では思っているのだが、眠気は強制的に蘭の意識に介入してきて支配する。何もかもがぼんやりとし始めて、男の手を振り払うことすら思い浮かばない。何度も何度も欠伸をかみ殺した。
 それは眠る直前の子猫を思わせて、思わず男の口元が綻んだ。
 三浦はあえて静かにしていた。蘭も、話しかけるほど余裕はなかった。
 しぱしぱとせわしく瞬き、そしてゆっくりと閉じ、次の瞬間、慌てて再び開く。
 ―――それを幾度か繰り返していが、次第にその目を閉じる周期が長くなっていく。滅多に見られぬ様子に、男の心中は穏やかでないものがあったがそれは悟られぬように努力した。病気だから幾分ん大人しいだろうとは思っていたが、想像をはるかに超えた愛くるしさがそこには存在した。
「まあ、それで、看病は得意でして。落ち着くでしょう? こうすると」
低い声でそっと囁く。もう聞いてないと思っていたが、蘭は何度か瞬いた後に口を開いた。
「………ど……して、落ち着くんだ?」
どうしてって、貴女……。
 音を立てず静かに苦笑いを浮かべた。
 その質問は意味がないことが判らないほど、もはや彼女の理性は弱くなっているのだろう。舌ったらずな今の声は永遠の記憶にとどめて置こうと心に誓いながら、三浦は己の気配を殺した。それによって、蘭の警戒心は完全に失せてしまった。
 数分後、ついに目が開かなくなった。
 くぅ、くぅと規則正しい寝息を立ててすっかり眠りこんでしまったようだ。
 名残惜しそうな目でその顔を見ながら、膝をあげる。そろそろ仕事に戻らないとまずいからだ。
「お。そうそう、忘れてた」
ぼやきながら、懐から十センチ角の平べったい機械を取り出した。
 ぱち。
 小さな音が機械から鳴る。が、眠ってしまった獅子は気がつかない。

 三浦コレクション NO.77 『寝顔』

 それは、雄山コレクション NO.33の『お仕置き後の涙』、丸木戸博士コレクションNO.69の『羞恥心』、警視総監コレクション NO.01の『拗ね顔』、零武隊コレクションNO.89の『微笑み』と合わせて、伝説の日明大佐カード・5の一つとして挙げられるようになったのである。