・・・  TAI-2  ・・・ 


 炎は椅子に全身を預けてながら一心不乱に本の頁を捲っていた。
 世界衣装事情―――
 数日前買ったばかりの雑誌だったが、もうすでに表紙も裏表紙もボロボロになっていた。穴が開く様にじっくり何度も何度も読み返し、わざわざ十本ほどの栞を買って背表紙につけ、大事な頁にはそれを挟んでいる。大した内容の雑誌かといえば、実のところそうでもない。子供の小遣いでも買えるようなもので、内容のほとんどが絵であり、文字も大きい。
 同室の真はなんともいえない表情で彼の様子を見ていたが、炎が普通じゃないことをするのがもはや普通のことなので、口は出さずそっとしておいた。

 寝る子は起こすな。

 それが真が親友に対して接する上での唯一の教訓だ。寝ていれば、どんな子供でも可愛いものなのだ。
 もはや開き癖までついてしまった頁を開いて、うっとりとしながら中央の部分に視線を這わせる。その文章は、一言一句までも彼のお気に入りだ。
「……全身を包むその高貴な肌触りに敵う衣服は存在せず。もはや帝王の着るべきものと称すべきものなり……」
章のタイトルは、『全身タイツの全て』である。
 復唱し、そして、その着心地を思い浮かべながら恍惚とした表情で目を閉じる。
 よくそんな本が売っていたな、とか。
 その文で自分の世界に入るのはちょっと普通じゃないぞ、とか。
 色々思ったが、真は無理やり目を背けて手元にある書類を見た。副官の毒丸が起こした事件の始末書だ。綺麗な文字で、読みやすい文面で、非常に『作りなれた』始末書は、現実逃避にはもってこいの素材だった。
 これがこの後、陸軍の存在そのものを揺るがすような大事件になるとはさすがの真でも予想がつかなかった。

  ******

 全身タイツ。
 実のところ、炎はそれに対する客観的な評価を聞いたことがない。だから世界の人間がすべからく自分と同じ評価を抱いているものと信じていた。
 真も現朗も目に入れても痛くないほど可愛い炎が好きだと思っていることに、いちいち文句を言うことはしない。それに彼らの基本的性格は冷淡で大雑把なのだ。世界に影響がないならばたいしたことではない、と割り切れる。
 激は激で、全身タイツのコレクションを自慢されたときは、『お前が好きだっていう気持ちが本物だってことはわかるぜ』と笑って誤魔化した。
 だから、知らなかった。
 ―――タイツが、さほど、世間では一般的ではないことを。
「……炎。
 お前、怪しげな服を持っているようだな」
それは夕方、六時を回って零武隊の全隊が官舎に戻った後のことだった。白服のエリートたちが一週間の仕事の報告をし、隊長たる蘭その一つ一つを聞く。ここのところ帝都を騒がすような事件も特になく、零武隊では通常の見回り任務と情報収集、それ以外は稽古をするくらいしかなかった。
 すべての報告を聞き終わってから、こほん、と上官は珍しく咳払いをした。
 物事をきっぱりいう性格の彼女にしては珍しく、少しだけ口ごもっている様子である。現朗は嫌な予感がして少しだけ気を引き締めた。また何かやらかしたのか、と冷たい目が語る。
 だが彼の予想は外れ、蘭は炎に向き直った。
「怪しげ……ですか?
 そんなものを持った覚えはない」
一秒足らずで返答が戻る。
「嘘をつくとためにならんぞ。
 寮母たちが意見をわざわざ言いに来た。炎、お前の部屋の窓に、人間の干物のような脱皮した皮のようなものがあるとな」
そこまで言われれば、激と真と現朗にすらピンとくる。

 タイツだ。間違いない。

 確かにあれは、洗濯後干している間は非常に見苦しい。和装では見慣れない衣類だから、一般人にはそう表現されてもおかしくはない。
 自分の溺愛するタイツを、怪しげと評価された炎はいたく不満だった。
「決して怪しいものなどではない。
 西洋では一般的だ。いきなり……」
それは知らんが、と蘭は長くなりそうな男の言葉に無理やり口を挟んだ。

「お前の意見も西洋の習慣もどうでもいい。
 寮母たちの意見からでな、あれを外に干すなと言ってきた。
 そのように対応しろ」

曰く、気味が悪い。

 一枚二枚ならばともかく、一度に干すときのその十枚以上。二日三日分纏めて洗濯するし、一日気分によって二枚から三枚交換する。一度着た物は決して二度は着用しない。そうすれば、洗濯する量は鰻上りで溜まっていくのは道理。
 人間の脱皮というのはまさに的を得た表現だ、と真は思う。
 別にだからといって今更気味が悪いとは思わないが、一般人には、人間の皮が十枚並べばそれなりに思うことはあるのかもしれない。
 隊員たちが色々考えるうちにも、蘭は寮母らの言葉を言いにくそうに語っている。その言葉はあまりに完璧すぎて、付け入る隙がなかった。
 全身タイツがいかに気味が悪くて、それがため零武隊の寮そのものがどれだけ不気味がられているのか。沢山通報された実績、警察の記録、周辺住民の噂と聞き込みの結果。流石零武隊の寮母たちだけあって、なかなかの証拠が揃えられていた。
 軍人寮というだけでも周囲の住人からは嫌がられているのに(勿論それは軍人寮がよく謎の崩壊とか不思議爆発とかを起こすからである)、不穏な噂がたつのは蘭としても困る。
 相手が炎でなければ寮母を説得する側に回っただろうが、残念なことに、槍玉にあがったのが零武隊きってのエリートの筆頭の彼だったのだ。彼の場合、通常の隊員以上に行動には清廉潔白さが求められる。でなければ下に示しがつかない。

 湿ったタイツがずらりと窓辺に並ぶ。
 白、黒、濃紺、鼠色。
 半分以上が数ある職人に作らせた珠玉の一品。
 ―――そんなすばらしい光景を前にして、気味が悪いとはこれいかにっ!?

 今までの価値観を全て否定されるような衝撃が彼を襲い、目の前が真っ暗になったように感じる。立っているだけの精神を保つのがやっとだった。炎は上官から告げられる言葉をぎりぎりで耐えている。
「……まあ、そういうわけだ。
 ゆえに、外に干さないで欲しいという。
 お前にはその、いい気はしないことはわかるが、どうか部屋の中で干すようにしてはくれまいか?」
蘭は徹頭徹尾困ったような口調だった。普段が傲岸不遜であるだけに、そういう言い方が出来るのかと驚かされるくらいだ。
 だが、それを向けられた赤髪の男にはそんなことを気にする余裕はない。
 据わった目のまま、暫く口を開かない。震える手を、悔しそうに握り締めた。
 痛いほど握られている拳から男の感情は伝わる。現朗は、心配そうな目で炎を見る。彼が上官に攻撃を仕掛けたら、命を張ってでも止めようと心に誓った。それが忠義だと思うのだ。
 返事は一つしかないのはわかっている。
 ―――わかっているのに、言葉にできない。

「……大佐は……」

掠れた声が辛うじて出た。
 彼の行動の先読みができず、ぱちくり、と垂れ目を瞬く。
「大佐は…………どう、お考えですか?
 ……タイツを……」
必死に救いを求めるような目をして、炎は尋ねた。
 目があった途端、蘭の頬が赤くなる。慌てて横を向いてしまう。

 俺の方が見られない程に…………

 上官の行動に、炎は打ちのめされた。最後の鉄槌を下されたような錯覚。
 握っていた拳から力が抜け、軽く開かれた手。からからに乾いた喉。
 タイツは、世界一素晴らしいものだと信じていた。それが当たり前だと思っていた。勿論、たとえそれが全ての人の価値観とは逆らったものだとしても、そう想い続けることはできる。
 しかしながら、全ての人の嗜好と逆らったものだと知らなかったという事実には、耐えられない。無知は罪だ。大罪なのだ。※
 世界一の道化だ。演じる道化ではなく生まれながらの道化。

 己れの罪は、己れで裁くっ。

 羞恥心が自殺願望に完全に変化を遂げた、まさにその瞬間。
 飛んでもハップンな上官が、とんでもない言葉を口走った。



「……………………カッコいいと思う」



炎以外の隊員が非常に不思議そうな引き攣った顔で硬直しているのはさておき、それを言った蘭自身もどう言葉を繋げれば良いのかわからず言ったまま固まってしまっている。
 赤髪一人、その言葉を吟味する余裕があった。つい一瞬前まで自殺も辞さない考えだったが、その思考は一切捨てた。というか忘れてもはや記憶の彼方である。
「カッコいい、ですか?」
炎がゆっくり反復する。
「う……うむ」
こくり、と頷く。ホッペが林檎のように赤い。本心からだったが、その意見を素直に口に出すのは羞恥心が邪魔をしていた。
「陸軍の軍服よりも?」
こくこく、と二回。肯定。

 いやいやいやいやいや、ちょっとマテや。

 と、激は突っ込みたいが、なんだかそれを言うのは非常に困難だ。なぜなら相手は二人とも自分よりはるかに上の技量を持つ武人だ。その上突っ込みを言った時点で敵と認識され、容赦問答一切無く攻撃されそうな気がする。武人としての勘がそう告げる。
「マントとかが……似合うとは思わんか?」
「俺はベルト派だ」
「ベルトは必須アイテムだろう。それ以外のアクセサリーといえばマントだと思うのだがな。
 こう、ポーズをとると決まる」
「目の付け所がなかなかいい筋をしている。
 やはりタイツは、正義の英雄には欠かせないと大佐もお考えか?」
「勿論だ。英雄には必須条件だ」

 あれぇ? 不穏当なこと言ってません? あの人たち。

 次第に熱の篭ってくる会話に、激が汗をたらしながら横の人々に視線を送る。だが、激に救援を求められた現朗と真は立ちながら目を瞑っていた。呆れ果てて聞いていない、というか聞き流している。
 まあ二人がそうならわざわざ大きくしなくても良いか、と激も考えを改めた。そういえば夕飯は鮭だったなぁ……と関係ないことを考え始める。その目の前で、色は白だの黒だの赤だの変な言葉が聞こえているが、気にしない。絶対に気にしない。
 ―――現朗と真の基本的性格は冷淡で大雑把。世界に影響がないならばたいしたことではない、と考える。
 だがそれは今回、非常に甘い意見だった。
 それに彼らが気づいたのは、一週間後の同時刻同場所でのことだった。

  ******

 「これから極秘に零武隊レンジャーを結成する」
日明大佐と炎がウキウキと極上の笑みを浮かべながら、三人の白服たちにそう宣言した。彼らの手には彩り鮮やかな全身タイツがある。
「目的は正義だ。
 行動も正義だ。
 重要なのは極秘さだ。秘密な結社だからな。秘密だ。
 ―――というわけで、悪がいたらこれを着て秘密に戦うように」
一週間前から、炎はタイツを部屋で干すようになった。
 真が理由を尋ねると、「正義の英雄は正体がわからないところが重要なポイントだからな」と決してわかりたくない答えを返された。
「……大佐、その、悪なんて、そうそう都合よく居ないと思うのですが」
「さすがイエローは鋭いな。
 案ずるな。零武隊の仕事の一部は零武隊レンジャーが請け負うよう配分する。だから軍の予算も使い放題だな。ただ上手くばれないようにしろよ。何故なら極秘裡に進めることに意義がある」
イエロー、もとい現朗はくらりと貧血を起こす。
 軍の予算を極秘裏に使うなんて、その時点で巨大な悪だと思うのだが、そういう思考回路が彼女にないのはもう嫌というほどわかっている。

 いい年の大人が、全身タイツで正義の味方ごっこか……

 真は自分に割り当てられた青のタイツを見ながら、一人ごちた。
 ―――時には、口に出して叱って躾けることも大事だったな、と。
 原因の一翼を担っている現朗と真はともかく、全く関係のない激はこれから多大な迷惑を受けるのだったが、この時点では彼はそんな未来を少しも知る由はなかった。



※ 無知は罪
 炎の用法は言うまでも無く間違ってます。