・・・  始まり  ・・・ 


 この年になって身売りか。
 今更この境遇に怒り狂う気力も起きなくて、蘭は堂々と背を伸ばしたまま男の後ろについていった。彼女は普段の軍服ではなく、唯一持っていた女物の着物をはおり、赤い帯を締めている。刀も持っていたがそれはこの家に入るときに取り上げられた。
 大きな屋敷。
 ―――だが、住人の名前は知らない。
 ここのあたりは著名人の愛妾の家が立ち並ぶ一角なので、互いに素性を知られないようにしている。調べる手段は零武隊隊長の地位を駆使しても存在しなかった。ただ、そこまで軍・官に関与できる人間などかなり数は限られているのだが。
 その中でも一際大きな屋敷の前で蘭は馬車から下ろされた。
 玄関から屋敷まで距離がある。その間の植木の手入れは丁寧にされていて、穏やかな日差しの下、芝生が心地よく風に揺れていた。
 名のある棟梁の作なのだろう、西洋式の庭に、収まりのいい二階建て日本建築。ところどころモチーフがかたどられている。
 休日の昼下がり、こんなところにわざわざ女らしい格好をしてこなければならないのは、とんでもない理由からだった。
 蘭の母が、壮大な詐欺にあった。その詐欺はあまりに巧妙でその話を聞いたとき唖然としたが母を責める気にはなれなかった。そして三十万という借金を銀行に背負うことになった。
 三十万。
 ……大霊砲が買えるな。
 家を出て命を絶とうとした彼女を必死で引き止めて、とにかく東奔西走して銀行に頭を下げて事情を話した。母は父と自分の身分を恐れてどうか表沙汰にしないでくれといったので、仕方なく警察には届けなかった。
 すると、主債権者から連絡があった。
「もしこちらの提示する条件をお飲みいただければ……」
と。
 耳を疑うような条件だったのだが、とりあえず話を聞くだけでも悪くはないと思い、今日ここに来たのである。



 「貴女に結婚して頂きたいのです」
「人違いではないか?」
コンマ一秒の間も空けず言い返したので、相手のほうが言葉に詰まった。
「い、いえ。そのようなことはありません。貴女です」
「確かに私は女性だ。
 が。子持ちでもう相当な年齢なんだが。そんなことも知らないのか?」 
「大丈夫です」
自信たっぷりという口調に、少しだけ彼女は悩んだ。
 そんな程度(=結婚)で済むなら悪くないが……
 いや。待てよ。この家を乗っ取るつもりかもしれないし、結婚と言う名で売られることもある。いや、そうに違いない。代々御国のために仕えてきた日明家を、そんなことさせてたまるか。
「仕事があるのでその条件は飲めないな。
 致し方ないが、警察沙汰にさせてもらう。三十万など一個人が正気の沙汰で払える金額ではないからな」
「勿論仕事を続けたり、今まで通りの生活で構わないそうです。それに、婿養子という形でよいですし、息子様が家を継ぐことには異存ありません。
 財産目当てとお考えならご安心下さい、依頼主はこれ以上の財産に微塵ほども興味は無いほどのお方です。
 …………色々不審な点もあるでしょう。
 せめて会ってお話ししてみるだけでもどうでしょうか?」
正直言えば、ここに来たのは好奇心だった。
 おそらくこの主債権者とやらが母親を騙したのだろう。非常に手の込んだ詐欺で、何故ここまでしたのか不思議でたまらなかった。
 しかも提示する条件が自分との結婚とは。

 誰だ。そんなことをする馬鹿は。

 廊下をすぎながら、蘭は色々考えた。恨みなら十回死んでもお釣が出るくらいに買っている。屈辱を与えたいと思っている輩は多い。その相手の顔さえ知ればこちらにも対処のしようがある。
 ……まあ丸腰だから、殺されないとも限らんな。
 独り苦笑した。
 ほとほと自分の好奇心に呆れてしまう。普段護衛している部下らの顔を思いながら、すまんな、と謝った。命を懸けて護衛しているのに、彼女が好き勝手にその命を弄ぶのは本来ならやってはならないことだ。
「こちらです」
案内された部屋には人はいなかった。座卓が一つあり、奥の部屋へ続く障子は開いていたが、御簾で区切られている。
 流石にあっさり顔を見せてくれるわけではないらしい。
 案内役は部屋には入らず、御簾の中の人物に到着の報告をした。
「お似合いですな、良い着物じゃ」
中から老人の声が聞こえた。記憶にない声だ。
「……そうですか。
 さて。そちらのお話を伺いに来たのだが」
唯一用意されていた座布団に座る。御簾と対面する形式だ。御簾の中には、二人いる。いや、気配は薄いが三人目がいる。気配の殺し方から見て護衛だろう。なかなか腕の立つ部類だ。
「まずはお茶でもどうかな?」
「遠慮させて頂こう。お話を伺いに来ただけだ。
 そちらの条件は私との婚約ということだが、まず、それは本気か?」
「……本気じゃ。おぬしが日明蘭だということはわかっておるし、その日明蘭が嫁に欲しいのじゃ」
……わかっている?
 と、その一言がひっかかる。
 今、私とわかっているといった。すでに面識があるか、面識のある人物がそこに控いるのかもしれない。だがこの声はどう考えても覚えはない。
「私には、ある程度社会的に身分があるのだが」
ひょっひょっひょ、と笑い声が聞こえる。
「……零武隊隊長が社会的身分と申すかえ?」
「陸軍大佐、の方だ」
零武隊のことを知っている。
 殺気が増した。
 零武隊、それは軍のあってはならない存在だ。どうしてそれを知っている?
「そんなに緊張するな。
 さて。
 茶も出さんで失礼だが、まあ、おぬしの母君の借金は儂のところで二十一万七千六百四十二円三十五銭になる。それを返してもらおう、とは本気では思っておらん。ただこの話を黙っている代わりにうちの問題児を一人押し付けたい。さすれば他の奴らからの借金もそのまま背負おうつもりじゃ」
「はっ。あの詐欺まがいのものを堂々と借金と言い切るとはな」
鼻で笑ってやると、向こうはそれを不快ともなんとも思わずに聞き流した。
「結婚のことは表向きにしなくて構わん。戸籍なぞに載せる必要もない。仕事もそのままで良い。そして、今後一切金には困らせん。うちの者になる者にそんな心配をさせるつもりはない。
 ただおぬしの家に、数人の使用人と問題児が一人増えるだけのこと」
「ほう。
 それはまた随分こちらに良い条件だ」
「気の強い女子は良いのぉ」
向こうから再び笑い声が聞こえる。
 おかしい。
 まさか、本気で縁談などするつもりなのか? しかも、条件が良すぎる。
 蘭の気の迷いが伝わって、ひょっひょっひょと御簾の中から笑い声が聞こえくる。
「嫌かえ?」
「生憎、旨い話ほど警戒する性質でな。
 裏が聞けないならば、断らせて頂く」
「それは……警察沙汰にするということか? それでは主の母も父も、いや、お主自身が困るのではないか? 息子もいるのだろう?」
「まあな」
と言い捨てて蘭は立ち上がった。
 本気で帰るつもりだった。交渉は嫌いなのだ。忠義という基準しかない彼女には、損得勘定の観念がない。
 御簾の中の相手が急に慌て出したのがわかった。交渉が出来ない人を相手にしたことがないのだろう。
「待てっ。話は終わっておらん」
「御免蒙る」
すたすたと廊下に出てしまう。
 御簾が上がった。
 そこから躍り出たのは―――
「大佐っ。ちょっとは話聞こーよ」

「毒丸っ!?」

度肝を抜かれ、思わず蘭は抱きつかれてしまう。一跳躍でここまでやって来たのは流石零武隊といえるだろう。
 ……数秒硬直して。

 がごんっ!

 蘭は容赦なく頭を殴りつけた。痛みのあまり一瞬すべての思考が止まる。その間にぽいっと毒丸をひっぺがしてついでに腰の辺りを強烈に蹴りつける。
「うわぁっ」
毒丸は空中で身をひねり、ぶんと空を切る良い音がする。
「殺さなかっただけありがたく思えっ!
 ああ? もしや貴様のまた悪戯か? 笑えぬ冗談をすると介錯なしで切腹させようか?」
「酷いよっ! 俺だって少しは自分の未来のこと真剣に考え始めたんだよっ! 本気だもん。本気でやったんだもん」
「なお悪いわぁぁっ」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら御簾の奥へ戻る。毒丸が飛び出たときの勢いのせいで御簾は床に落ちていた。
 八十代の老人と、五十代ほどの男。
 ……なるほど。
 毒丸の家系については、表向きは知らないことになっているが彼女も知っている。財閥当主の孫。だが、それにはさらに真実があり、本当はそこの財閥当主と息子の嫁に産ませた子供だ。
 それが零武隊に入ったのは色々理由があるのだろう。
「……それで。
 問題児の貴様が将来のことを考えたというのはどういうつもりだ」
「だからさっ。いろんな人と駆け落ちとか結婚とかかしてみたんだけど―――
 大佐がいいと思ったの」
「ほう」
笑顔で蘭がつかつか近寄ってきて。
 ―――そして。

 ごつんっ。

 重い拳が毒丸の頭に落ちた。
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁぁっ。
 その考え方だから駄目なのだ。馬鹿者っ。もっと精神を根本的なところから治せっ! 嫌ならば丸木戸の実験材料にするぞっ!」
「痛いのっ。頭打って馬鹿になったらどーすんだよっ!」
「いや。案外良くなるかもしれんな。
 もっと殴るか」
二人はおろおろとその様子を見ていたが、止められそうではない。
 蘭は遠慮なく二三度蹴りを入れた上に最後に鳩尾に拳を入れて気絶した。毒丸も精一杯の抵抗を見せたが、殆ど一方的な虐待で終わった。
「……五月蝿いのを黙らせれば話が進むな。
 それで、この茶番はこの馬鹿が思いついたので宜しいな?」
「我孫によく言うな。それとこの子の手を上げるのは儂に手を上げるのと同じだと考えよ。日明大佐」
「ほう。では、貴殿に手を上げたいときはこいつを遠慮なく殴らせて頂こうか。
 それとこいつの頭の悪さの原因がよくわかった。
 殴っておかないと良くならん」
老人の目に嫌な光が宿るが、蘭は一瞥して気に飲まれない。
 ……こんな若造ごときに。
 と、彼は苦々しく思った。気迫だけでは勝てる気がしない。流石に、息子から『何にかけても一流だ』と評価されるだけのことはある。
「……この話し、快く受けさせてもらう。
 但し、婚姻期間は三年間という条件をつけたならば、だ」
「ほう? おぬしから条件とは面白いな」
「あっはっは。こちらのためではない。
 三年も私と一緒に生活したら、こやつも過ちに気づくだろう。私と婚姻なんて、馬鹿げた話だ。そうなったときは、さっさと別れさせてやりたい。枷にはなりたくないからな。
 だから、三年は絶対に離婚しない。だがそれ以降は好きに別れていいという条件をつけたい」
「……おぬしから別れを切り出すのは許さんぞ」
「当たり前だ」
言うだけ言うと、蘭は毒丸を抱えて部屋に戻ってきた。二人の前に座り、姿勢を正す。それだけで彼女に纏う空気が一変した。
 指をつき、丁寧に頭を下げる。

「毒丸を、責任もって預からせていただきます」

その一挙一動に思わず見惚れた。
 非の打ち所の無い所作だった。先ほどまでの暴力的な雰囲気は消えて、まるで流れる水のような動作に、美しい、とすら思えてくる。
 ……いい女だ。
 嫌味なく、彼らは思った。
 挨拶が済むと、蘭は転がっている毒丸を抱き寄せて膝枕に乗せる。何度か頬を撫でてやると、ぱち、と毒丸の目が開いた。
 周りは静かになって、彼を見ている。
 あまりの静けさに、説得は(あれを説得と言えるのは地上どこを探しても彼だけだが)失敗したようだ……と瞬時に悟った。悟ったとたん、悔しくなった。

 なんで。
 なんで、なんで。
 ―――なんで駄目なんだよ。

「ほ、本気なんだよっ。冗談じゃない。悪戯じゃないっ……本気で……」
半泣きで胸を掴んでくる隊員に、さっきまでしていたのと同じように蘭は頭を撫でた。落ち着け、と言ってやる。
「落ち着くもんかっ! 納得するまで、絶対、絶対家に帰さないっ。
 大佐は、大佐は俺の……」
「お前の本気はよくわかった。だから、他の奴らには言うなよ」
「え?」
きょとんとした目で固まって―――
「だから、結婚しようが、一緒の家の住もうがそこら辺はかまわん。お前が覚悟したならばその覚悟受け入れてやる。
 だが、隊員どもには言うなよ。軍にも言うな。手続きが面倒だ」
 ………………。
 ………………。
 理解するのに、たっぷり一分以上の時間を必要とした。
 が、理解すれば話は早い。
「嘘ぉぉっ。
 まじでっ。
 ―――本当にいいのっ!?」
自分で頼み込んだくせに承諾されるとは思っていなくて、毒丸は蘭の胸倉をつかんでがしがし揺する。
 迷惑そうな顔をしながらぼそりと呟いた。
「お前が駆け落ちやら幼女強姦やらで捕まるよりは余程良い条件だからな」
騒がしく喚きたてる彼の頭を、こつん、と軽く拳でたたく。
 軽く、とても軽く。
 それは、嘘ではないということだ。
 えへへへ……と頭を抱えて笑った。
「こらっ。いつまで膝枕にいるつもりだ。
 ご家族にきちんと挨拶をせんかっ!
 帝国軍人たるもの、姿勢を正せ馬鹿者っ!」