・・・  道を誤るとき。  ・・・ 


 それは仕事の話が終わり、出されたお茶を飲み干しているときのこと。
 零武隊隊長と警視総監の二人は顔をつき合わせて、神妙な表情をしている。騒がしい空気が似合う二人には似つかわしくないくらい静かだった。
 この時間が、この恋人たちに与えられた唯一の心の休息なのだ。仕事でも嫌味でもなんでもなく、ぼつぼつと当たり前の日常会話を交わす。それが二人の楽しみだ。
 お茶を飲んでしまえば、この時間は終わる。
 蘭は、一口飲んではカップを戻し、また口につける動作を繰り返していた。
 八俣はその様子を伺いながら、彼女の気が緩む瞬間を狙って口を開く。
「そういえばこの前知ったんだけれど。
 今、帝都で備前伝の刀工の作品展がやっているらしいのよ。
 あの福岡一文字とか、吉岡一文字とかの作品もちらほら出てて、名に聞く名品のいくつかも出てくるらしいんですって。それ以外の作品もなかなか見物でね。部下の一人が行ってきたんだけれど、『あれは警視総監でも驚きますよ』だって。
 ふふふ、そういわれると行ってみたくなっちゃってね」
楽しそうに微笑んで、ごくりとまた飲んだ。実は、もうとっくにカップに茶は残っていない。飲む振りをしただけだ。
 蘭はその言葉に眉をひそめる。
「お前も知っていたか?」
「あら。あんたも知ってたの?」
互いに仕事に追われる籠の鳥のような身の上。外界から厚い木製の板でシャットダウンされ、帝都にいながらして世間から隔絶されている。二人が同時にひとつの展覧会を知っているなど、確かに、奇跡に近い。
 しばらくの間、吃驚した顔をつきあわせた。
 先に、動いたのは彼だった。
 カップを音ひとつなく戻すと、いきなり、机の書類を集めて席を立ち上がる。蘭のカップにはまだ残っているのに。
「その一件は片付いたわけだから、週末仕事はないだろ。
 行こうぜ。
 入場券二枚、その部下から貰ったしよ」
そして軽く言い捨てると、返事を聞かずに出て行ってしまったのである。



 普段はオカマのくせに。
 マッチョなオカマのくせに。
 ああいうときだけ素に戻るのは卑怯だ!
 ―――と蘭は布団の中でぐずぐずと思っていた。嫌なことがあると膝を抱える癖があるのは日明家の伝統であるが、彼女の場合それにさらに布団を被るというオプションがつく。

 あいつめっ。あいつめっ。あいつめぇぇ―――っ

 ぎりぎりと歯軋りをしながら、八俣が最後に投げつけた言葉を思い出した。
 あの真剣な目で穿たれると、それだけで、内臓のどこかが急に活動を活発にして体中に血がめぐる。その瞬間に強引に約束を決められると、嫌とはいえないのだ。何故だか。

 だから奴は卑怯なんだ。
 卑怯な奴は、嫌いなんだ。
 大嫌いなんだぁっ!

 問題の週末は、仕事に追われているうちにあっさりとやってきてしまった。
 しかも家の中からでもわかる(日明家では雨戸を閉めない習慣になっている)快晴の空模様。小鳥の囀る声が時折聞こえ、清清しい朝がそこに広がっているだろうことは容易に想像がついた。まるで天候までもが彼の支配下にあるようだ。
 刀の展覧会には、行きたい。
 備前伝といえば古刀五箇伝のひとつで、新々刀期まで続いた一大刀剣生産地の伝法だ。有名な刀工は十人二十人ではない。特に、福岡一文字は蘭が子供のころから憧れていた刀工で、普段は無口な父が太い声でぼつぼつと福岡一文字則宗の菊一文字の話を語ってくれたことをよく覚えている。
 あの人気の展覧会が、しかも無料でいけるなんて!
 嬉しいはずなのに、すんなりとそれを喜べない。
 一応、これは、日取りを前もって決めて、ひとつの場所に、八俣と二人きりで、行く―――ということになる。

 外形だけを捉えて、身もふたもなく言ってしまえば、逢引ではないか。

 逢引、という言葉を思い浮かべると、蘭の緊張はいやおうなしに高まった。赤面しているのが自分でもよくわかる。

 一児の未亡人なのだから、八俣と一緒にいることは世間体的に悪いことではない。
 それに、もう、箱入り娘とかそういう年ではない。
 二人はきちんと手順を踏んで付き合っている。
 こういう逢引も、何度目かにはなる―――

 ……と言い聞かせてみるもののまったく納得がいかない。
 うぅぅと顔を赤らめて布団の端をもってさらに丸くなる。
 出かける用意は出来ている。別に楽しみだったとかそういうわけではなく、仕事でついた習性だ。
 寝る前に、数少ない着物を箪笥の奥から引き出して、この前貰ったばかりの着物を取り出した。知り合いの男から貰った藍色のものだが、姿見に映った自分は一応そんなに男に見えないだろう。髪が長いのはこういうときは役に立つ。腰に愛用の刀を隠して、もう一度姿見の前に立った。
 よし。刀も見えないな。
 廃刀令が実施されているので、軍服を着ていないときは凶器は隠さなればならない。そのため、少しぶかぶかな、男物の着物が一番良いのだ。八俣は拳銃の所持を進めるのだがそれは蘭の好むところではないので断った。

 お洒落してみればいいのにぃ。楽しいわよ?

 ……別に楽しくなんかない。
 お前の趣味ごとき、押し付けるな。
 あのにこっと微笑んだ表情を思い浮かべながら蘭は心でさらに悪態をつくのだった。



 長くそうしているわけにも行かず、十時の約束の三十分前になってしぶしぶと布団から出てきた。天馬は剣道道場の合宿に行ってしまい、戻ってくるのは今夜だ。
「……べつに、私は、展覧会を見たいだけなんだからな」
ぼそっと、小さく言い捨てる。
 枕元に用意してあった着物に着替えて、昨夜の姿と同じものが姿見に映った。
 ふてくされた表情に特有のたれ目、髪もばさついていて昨日の自分よりも悪いような気がする。
 ……似合ってないかも。
 しかしそれを思うには時はすでに遅し。
 しょうがなく鏡台へ向かった。
 部屋の隅においてある鏡台が埃一つ被っていないのは、これをくれたお手伝いの娘がきちんと手入れをしてくれているからだろう。かけてあった布をとり、引き出しからいくつかの化粧道具と櫛を取り出す。
 乱雑に髪をすくと、今日はやけに引っかかる。なんだか幸先が悪い。紅をさして、そして、最終確認をしながらもう一度髪を整え始めた。

 ドンっ。どんどんっ。

 扉をたたく音が聞こえる。
 さっと蘭は立ち上がって、ばたばたと廊下をかけた。遅くなると、家が壊れるのだ。玄関の鍵をはずして戸を引くと、そこにはいつもの顔をしたいつもの男が待っていた。
「おはよう」
「……早くないか?」
「仕事じゃないからね」
軽い嫌味を飛ばしながら、バチッとウインクを飛ばす。それにとりあえず不機嫌な顔で返しておく。
「朝から何よその顔。
 で? 用意は済んでる……わよね?」
「戸締りはまだしておらん。ここで待っていろ」
「えー」
不満そうに声を上げる男を無視してどかどかと蘭は戻っていった。
 早い。
 早すぎる。
 五分前十分前の話ではない。二十分も前ではないか!
 とりあえず部屋に戻って、財布やら必要なものをかき集めた。
 ……と。
「おー。ったく、色気のない部屋だな」
どうやら彼は後ろからついてきたらしい。
「玄関で待っていろと言ったつもりだが?」
「化粧、まだ終わってないんだろ」
「終わってるわっ!」
蘭が立ちすくんだまま睨みつけたが、それを気にせずにどかどかと部屋に入ってくる。布団すら敷きっぱなしの状態なのに、入って欲しいわけがない。嫌味たらしく布団をばたばたと埃を立てながらしまった。
 彼はというと、座り込んで勝手に鏡台の引き出しを開けている。紅と筆を取り出すだけではなく、奥の方からいくつもの未開封の化粧品も探し出した。
「おい。そこに座れ」
「だから化粧は済んだっ。もう行くぞ」
「…………頼むから座れ」
う。
 ―――傲岸不遜な奴だけに、頼むといわれると、弱い。
 しぶしぶと蘭はその場で膝を曲げると、彼はそれらを持ってやってきた。
 薬品をつけた布巾でいったん口を拭い、筆を使って、さらさらと形の良い唇に紅をおく。彼女は一色だけをただべた塗りにしたが、二三色を用いて立体感をあらわした。
「……綺麗な口だからな、まあどんな化粧品でも劣るなぁ」
そう言われると、秀麗で真剣な顔が離れていく。
「見え透いた世辞は嫌いだ」
「まだ話すな」
ぴしゃりといわれて、彼女は眼だけで不快さをあらわす。

 嫌いだ。
 卑怯だ。

 道具を鏡台に戻すと、また、彼は戻ってきた。
 しげしげと蘭の唇を観察する。
「おっと。塗り忘れるところだった」
小声が聞こえた。
 再び、彼の顔が近づいてくる。
 精悍で、野性的な、それでいてひどく上品な不思議な雰囲気。その深い彫りに、思わず蘭は見蕩れてしまう。
 ―――次の瞬間、二人の唇が重なっていた。
 吃驚して動けない蘭の頭を、後ろからさっと掴んで逃がさないようにする。同時に彼と比較すれば華奢な体を、反対の腕の中に入れてしまう。両腕に雁字搦めにしてしまえば、並みの男だって逃がすことはない。
 だが、予想外に、蘭も抵抗はしてこなかった。
 目はぱちっとあけたまま、ぴくりとも動かない。彼女が恐ろしく緊張しているのは、両腕が教えてくれる。
 時計の上では短く、人生の中では長い時間が過ぎ、ようやく満足して彼は顔を戻した。

 口と口が離れて、糸が引く。
 八俣の舌が、彼女の体の中に入っていたという証。

「……あー」
沢山の言い訳が、明晰な頭脳の中に跳梁跋扈する。
 まずい。
 ―――こんなつもりじゃなかったのに。
 ちらり、と前の女性の顔色をうかがった。部屋は薄暗く、表情は読めない。
 が。

 チャキ

 いつの間にか、彼女の手には脇差が握られていた。

「……散れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ―――」




 その日、展覧会に二人の男女が現れることはなかった。