・・・ 記念日が増えました ・・・
「日明。なあ、明日は、外へ食事に行かないか? 夕食を」
珍しく積極的に蘭から誘ったのは、二人の遅い夕食が終わったすぐ後のこと。二人は菊の酢漬けを堪能し、軽く熱燗を飲んでいた。
日明は二つ返事で頷こうとしたが、その前に、杯を空けながら眉間に皺を寄せた。……明日だって?
「明日って十日のこと? それとも十一日?」
視線の先には時計がある。時計の針は十三時を指していた。
「勿論十日だ。
折角だからその……」
酒かそれとも別なものか、蘭は頬を染めながらさっと俯く。
指と指を擦り合わせながらもそもそと何かを呟いていたが、暫く経って、恥ずかしげに微笑みながら顔を上げた。
そして。
そこで、ようやく気がついた。
蘭の予想に反して、夫は渋面になっていたのだ。
残念なことに、それはあまりにも日明にとって急な話だった。
「明日はうちの部隊で演習が入っていて変更出来そうにはないよ。帰りは遅くなると思う。悪いけれど、別の日でいいかな?」
妻は完全に呆けた顔をして固まっていた。
まるで、断られるなど全く予想していなかったような表情だ。
見る見るうちに顔色は曇り、目は釣りあがり、ふいっと後ろの畳を見て目を逸らす。そんなにショックを受けるとは予想外で、日明はすぐに言葉を繋げた。
「今週の土曜の夜なんか大丈夫だけれど。いや十一日も平気だよ。ら、蘭さんのところはどう?」
「……それなら、いい」
言いながらすっくと立つ。
日明はおろおろと手を伸ばして彼女を止めようとするが、つかむ勇気がわかない。
なぜなら、何を怒っているのか分からないのだ。
今まで甘く、和やかな時間が流れていたというのに。いきなりの心情の変化に、日明は付き合いは長かったが全く理解できなかった。
「え? いや、で、でも外食しようよ。うん。
いい時期だし。冬になったから魚も鳥も美味しいよ」
「それならいらんっ。もう寝るっ」
十一月十日。
―――その日は、蘭は一日中不機嫌だった。
折角勇気を出して誘ったのに、まさか断るとは思っていなかった。色々用意していたのに全てが無駄になった。彼の言葉を信じて一ヶ月以上も前から楽しみにしていたのだ。彼は絶対喜んでくれると思っていたのに。
これだから、口先ばかりの奴は好かぬっ!
思い出すだけで胃の腑に刺すような痛みが走って嫌な気分になるので、仕事に没頭して忘れようと躍起になった。が、それは直情型の彼女には無理な話だ。
会話の合間合間に前後関係なく突然眉間に皺が寄るので、眼前に座る警視総監は不思議そうに首をかしげた。こちらは揉み消し終わった事件の報告をしているだけなのに、何故か我侭軍人は非常にご機嫌斜めだ。
媚を売れとまでは言わないが、こういう態度はやはり癪に障る。
「文句あるならはっきり言いなさいよ」
思わず、言葉が口をついて出てしまった。
一瞬八俣の言葉が分からなかったが、直ぐに理解して首を横に振った。
「何もないが?」
「はあ? じゃあなんでそんな殺気撒き散らすのよ」
「こちらのことだ。
それより……いや、助かった。いつもどおり手際が良いな」
「あんたが素直に褒めるとなんか背筋に変なものが走るのよね。
そんなにぼんやりしていると殺られるわよ」
「別に……さほど気が散っているわけではない。少々考え事をな……」
へえ。
八俣はさも面白しそうににやりと口を引き攣らせた。
―――刹那。
彼女の目の前に銃口があった。
「ばん」
人を小馬鹿にした口調であえて言う。
銃口は眉間に狙いを定めていた。
八俣は、報告しながら銃を取り出して書類の影に隠し、そして、蘭の一瞬の隙に構えたのだ。彼が刺客だとしたら無事では済まなかっただろう。
「……これでも上の空ではないと?
悩みが日明と天馬ちゃん絡みなら聞いてあげるくらいはするわよ」
図星をつかれて心臓が跳ね上がる。
日明。
夫の顔を思い出してぷっと女の頬が膨れた。
「別に……大したことではない。
お前今夜暇か?」
「……暇ってアンタ並には暇だけど」
嫌味を交えながら返したが、相手にされない。
「では酒に付き合え。鳥丸に予約を入れている。
日明が行けないから二人きりだ。いいな?」
「鳥丸ですってっ!?」
鳥丸―――と聞いてさしもの警視総監も一瞬椅子から腰が浮いた。同時に、部屋にいた警官たち全員の視線がそこに集まった。
日明家という一流のツテがなければ予約だってとるのが困難な、まさに帝都の一位二位を争う料亭だ。一見さんお断りなどという敷居の高さのレベルではない。紹介があっても断られることがよくある。さらにこの冬に入る時期は、鳥鍋が出るので人気がぐっとあがる。
その予約がとれたとは。
それだけでも非常に驚きなのに、それを夫ではなく自分を選ぶとは。
「喧嘩でもしたの?
日明があんたとの約束反故するなんてすごいことじゃない」
「あいつは仕事だ」
日明が仕事が入ったから蘭との食事の約束を諦める―――。
そんな回路があの男に搭載されているとは考えられない。地球は自分と蘭のためだけに回っていると信じて疑いを抱いたことがない男だ。たとえ親の死に目だろうが蘭との時間を大切にするだろう。
そうなると、今の仮定はどこが間違っていることになる。
まず、日明が蘭を誘ったらそれを中止するのは何があってもありえない。
では―――鳥丸に誘ったのは……。
「も、もしかしてお前から誘ったのかっ!?」
その結論にたどり着いて、あまりのことに、八俣は椅子から立ち上がっていた。
彼女は恋愛関連―――夫婦関連―――については間違っても行動を起こすタイプではない。全部日明がお膳立てした上を歩くだけだ。
その女が自分から誘うとは。
蘭は耳まで赤くして睨んできた。
「別に、いいだろ。今日くらい私だって一緒にいたくたって。
……ふん。だから口約束は嫌いだ。何が大切な日だ。絶対忘れないって言っていたのに」
「た、大切? 今日なんかの記念日だったの?」
日明がお前との記念日を忘れるはずがねーだろっ!? あの兇暴鬼神が―――
思ったことの半分を無理矢理飲み込んで、必死に出さない。日明はとかく自分の本性をこの女の前だけでは隠したがる。そして間違いなく今この瞬間だって蘭を監視しているのだろう。下手な発言は命取りだ。
八俣は目を白黒させて蘭を見ていると―――
「奴と私の結婚した日だ。去年のことなのに、奴は、もう忘れやがった」
ふん、と忌々しそうに息を吐く。
………………。
………………。
全ての思考が無に戻る。
その一言の衝撃はあまりに強く、警視総監は勿論、その部下の警官は当然、部屋の入り口で控えていた鉄男までが固まった。
だが、一番に回復したのはその鉄男だった。
流石無駄に零武隊隊員のことはある。
「……大佐」
恐る恐る、顔を蒼褪めながら声をかけた。
警視総監と話している最中に、部下に声をかけられるのはあまり嬉しいことではない。迷惑なという表情を隠そうともせず、上司は振り返って鉄男を睨んだ。
「なんだ」
「……大佐の御結婚式はたしか―――」
その鋭い光にも負けず、鉄男は、ごくり、と生唾を飲んで進言する。
「十一月十五日です」
鳥丸の予約は八俣に二人分を譲り―――
何故か家には遅くなるといったはずの日明が満面の笑みで居て―――
日明家では十一月十日も祝うようになったのである。
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