・・・  書類の行方  ・・・ 


 その日、現朗は見事なまでに疲れていた。
 連日深夜にまで及ぶデスクワーク、朝になれば必ずかかる元帥府からの催促の電話。食事は運がよければありつける。そんな、荒んだ日々が続いていた。目覚めるのはいつも机の上で、布団で寝た記憶がとんとない。
 一日二日ならば体力は持つが、一週間以上こういう日々が続くとさすがに負担が大きくなる。
 隈の色濃い目を擦りながら、ようやく朝になって完成した書類を持って、ふらついた足で上官の執務室に向かっていた。
 昨夜は一睡もしないでこの書類ににかかりきりだった。
 提出日は今日の午前中。五六冊の資料に埋もれながら朝日を浴びたとき、もう無理かもしれない、と本気で思った。だがその後思いのほか筆が進み、つい先ほど完成したのである。
 執務室にたどり着くと、蘭はいなかった。
 時計を見ると九時十五分。成る程、いなくて当然だ。零武隊の朝礼の時間だ。どおりで官舎全体が静かなはずだった。本来なら自分だって出なくてはならないのだが。
「……まあ。構わんな」
苦笑する。
 人一倍規律に五月蝿い彼が達観の域に達していた。今更、焦って出ようとは少しも思わない。穏やかな日の光を浴びながら、ああ、静かだな、とそう思っていた。
 目を閉じて夢想に浸った後、持って来た書類を机の上におき、そして、代わりに散らかっている他の書類を確認する。
 困ったことに彼の上官は、とんでもなくはた迷惑な秘密主義なので、仕事を溜め込むとのっぴきならないところまで溜め込む習性がある。リスが木の実を隠しておいて春には忘れて、いつの間にか芽が吹いている―――なんて可愛いレベルではない。元帥直々に髪を怒らせながら零武隊にやって来るのも、もはや三ヶ月に一度くらいの風物詩だ。
 どんな仕事があるのか、いつまでの提出期限なのか。幸いなことに、現朗の心臓を止めるような提出期限の書類は発見されなかった。
 ようやく家に帰れる……。
 そう胸を撫で下ろしている、と。
「おや?」
彼女の抽斗から不自然にはみ出している紙の端が見えた。
 取っ手に手をかける。案の定鍵がかかっていたので、それを筆立てにあった五寸釘を使ってこじ開けた。
 気は咎めなかった。彼は、このプー太郎上官が仕事を隠すことに関しては、何より自分の勘を信頼している。遠慮して痛い目を見るのは自分自身だ。
「……なんだ。備品書ではないか」
しかし珍しく勘が外れて、それは仕事ではなかった。
 ただの、備品書だ。
 冒頭一枚目は備品申請書、その後ろは現在の備品の総数が載っている備品使用状況書が続いている。
 備品書は毎月更新される。ある備品を申請すると、それに基づいて元帥府が発注し、製品が零武隊に到着すると現在使用状況書の中に書き込まれて、申請書とセットで返却される。
「この書類が……なぜここに?」
そして、この備品使用状況書は、月一度の大掃除の備品チェックに欠かせないので、掃除用品の中に大切に納めることになっているはずだ。
 半分寝惚けてぼんやりとした頭で考えていたが、答えは出なかった。
 ……しまっておこう。失くすと厄介だからな。
 安直に結論づけて、現朗は来たときと同様ふらついた足取りで、それを持って部屋を出て行った。



 戻ってくるなり書類を掲示板に貼った。天馬にしまってもらおう、と考えて。
 体が動きたくないと悲鳴をあげている。頭痛は昨日まであったが今朝になって嘘のように消えた。他の部分が痛くなったからだ。
 気を入れなおそうと珈琲を飲んでいると、がやがやと音をたてて隊員たちが戻ってきた。真っ青な顔を色をした金髪の姿を見つけて、激が走ってくる。
「おい。大丈夫かよ? 朝礼来ないから心配したぜ」
「……ああ。書きあがったら出ようと思っていたのだが、つい先ほどまでかかってな。申し訳ない」
「いーよ。仮眠室とっといたから少し休めよ。
 オメーも軍人なんだし、ちったぁ気をつかえって。体は資本だぜ?」
虚ろな目で聞きながら、ごくり、と珈琲を嚥下する。
 確かに、この体調では何も出来ないだろう。動きは緩慢だし、弱い日の光ですら眩しい。どこか脚元がおぼつかないで始終浮揚感がある。そう考えているうちに、頭痛が再発してきた。
 ……休むべきだな。
「大佐と炎様に、二時間ほど休むと伝えてくれないか?」
「オッケー」
激の安心できる返事を聞いて、彼は珈琲カップを机に置くとふらふらとしながら席を去った。
 ―――そのとき、掲示板に備品書が残されたことを、彼は完全に忘れていた。



 一番に気づいたのは、目敏い新人だった。練習の準備のために一番に用意を済ませて訓練場に向かおうとしたとき、その紙に気づいた。掲示板は部屋を出る扉のすぐ側にある。
 さっきまで無かったよな、と、天馬は思いながら手を伸ばした。
「誰が置いたんだろう。しまってもいいのかなぁ?」
不思議そうな顔をして、ぱらぱらと捲る。
 見慣れた備品書―――の、はずだった。
 捲る手が止まった。
「……これは……」
目が見開かれ、血の気が引く。
 ……それは、あってはならない書類だったのだ。
 可愛い溺愛気味の後輩の後姿を見つけて、毒丸は首をかしげた。
 書類を持ったまま、何をするでもなく止まっている。硬直している。
 気にはなったが、いつもの通りの愛情たっぷりの挨拶がしたくて、助走しながら後ろから飛びついた。
「おーっす。天馬。
 そろそろ練習の用意に行かないと怖い先輩たちに角が生えるぜ?」
耳元でやかましく笑いながら、少年の持っている書類を覗き込む。
 何見てんだよぉー
 ……と、言うつもりだった口の形がそのまま硬直した。その一文を見つけたからだ。

 猫(命名;毒丸.黒毛オス)  1匹

 それは備品書なのに、明らかに通常でない『備品』が掲載されている。
 その綺麗で、優美で、堂々たる有無を言わせない文字は誰もが知っているものだ。
 硬直した二人組みに、様子がおかしいと思った隊員たちが次々に近寄って、同様に硬直する。部屋の片隅に不自然な人だかりが出来た。彼らは騒ぐことなく、動くこともなく、ただただ止まっているのだ。
 自分のこと以外は殆ど気にならない炎も、眉をひそめて隣の爆に尋ねた。
「おい。奴らはどうした? そろそろ練習の時間だろ」
「……さあな。少し待っていろ」
好奇心をひたかくしにし、気のないふりをして、さっと爆は立ち上がる。そして一群のところに行って天馬から書類をとりあげた。
 たっぷり一分以上その書類に目を通してから、炎の元に戻ってきた。
 険しい表情で開いて差し出す。後ろには多くの隊員たちが複雑な表情をして控えていた。特に天馬は沈痛な面持ちをして視線を床に逸らしている。
 炎は受け取って、視線を這わせた。

鉄壁(鉄男含む) 15枚  
大霊砲銃弾(激含む) 5発  
三白眼 4ケ  
たわし(個体名;炎) 1ケ  
騒音(個体名;現朗) 1塊  
生贄(個体名;天馬) 1ケ (不足。要申請)
人体実験用実験素材 62ケ (他の備品を使用)

 そこには、信じられない文字が躍っていた。しかも延々と二枚三枚、びっしりと書き込んである。随分な嫌がらせもあったものだ。
 赤髪の眉間にぐっと皺が寄る。
「……ほほう。たわし、だと?
 何を血迷っているのだあの上官は」
その一言に万感の思いが込められている。
 しかもそれは、全ての隊員の気持ちを代弁していた。
「俺は三白眼で数えられているとはな。知らなかったぞ」
「銃弾ってのも酷いと思うんだけどよ。特攻しろってことかよ。というか、特攻にしか使えないと思ってんのか、大佐」
炎の言葉を皮切りに低い声で囁き合う隊員たち。天馬は表面上は困ったような顔をしているが、彼も生贄扱いされたことは相当頭にきていた。蘭の本音を知った彼らは、一気に感情が冷めた。
 備品書に悪口を書き、しかもそれをわざわざ掲示板に貼る。随分と手の込んだことをやってくれたものだ。……このままで済ませてなるものか。
 炎は目を瞑り腕を組んで暫く沈黙する。
 そして、今日の仕事予定の一切を変更させることを宣言した。

 同時同刻。

 執務室では暇つぶしに作ったなんちゃって書類の行方を血眼で探す蘭の姿があり、 全ての元凶は仮眠室で心地よい夢の中に浸っていた。