・・・  櫛風沐雨  ・・・ 


 その日、八俣警視総監がわざわざ日本陸軍特秘機関研究所まで足を運んだので、仕事が大いにはかどって蘭の機嫌は上々だった。二人とも忙しい身なので仕事の打ち合わせや連絡は専ら書類の往復による。電話ですることもあるが、二人揃って執務室に居ることのほうが少ないので殆ど役に立たない。
「これで此方に言っておくことは全てか?」
「そーね。あんたも全部なんでしょ?」
八俣はソファに座りなおして背筋を伸ばした。目の前の低いテーブルに五六冊の書類の束が置かれている。現朗と激が入り口のところで控えていた。蘭が、八俣の持ってきた資料から新たな仕事を命じるために先ほど呼んだのだ。
 書類を取り上げて一ページ目をを読む。頼んでおいた調査の結果だ。
「今日は悪かったな。使い走りの真似事をさせてしまって」
「……あんたがそう素直に言うと、勘繰らざるを得ないんだけど。まあ私用のついでだから」
八俣は珈琲に口を付けながら淡々と返す。
 ほう、と気のない返事をした。実際全く気にしていなかった。それよりも素晴らしい調査結果のほうに心が奪われていた。これを基に探せばすぐに今の案件にかたがつくな、と思いながら頁を捲る。
 八俣の私用。

 ……私用?

 その疑問に至って、手が止まった。
 日本陸軍特秘機関研究所の側に彼が私用とするようなことがあるのだろうか。この研究所の周囲は穏やかな田園地帯で、店や人家は殆ど無い。それに私用というわりには、仕事中でも制服を脱ぐこの男がきちんと制服に身を包んでいる。
 となると、用はこの研究所自体になる。
 愚息の天馬は、今、鞍馬山に行っているのを彼は知っているはずだ。
 そうなると彼の用がいったい何なのだろうか。
 蘭は数ヶ月前に手に入れたまま放置しておいた不確かな密告を思い出した。


 こつこつと戸が叩かれる音がした。珈琲の香り漂う穏やかな空気の中、全員の注目が集まる。かちゃり、とノブが回る。
「たいさー。またアンタ変な死体回してきましたね。いい加減にしてくださいよ。これでも僕は死体鑑定士じゃないんです。実験したいんですからっ。
 あれは一体どういうおつもりですか。わざわざ顔を潰して真っ二つって、あんたの技量でそういうことする必要ないでしょう……」
ぐちぐち言いながら入ってきたのは、この部隊で唯一背広を着ている眼鏡の教授、丸木戸だ。
 はあ、と蘭がため息をつくのが警官にはわかった。
 闖入者は、部屋の普段に無い雰囲気に気づいて、言葉を止めた。
 まず、ソファの警視総監を見て、次に、現朗と激に振り返る。
「今、まずかった?」
横に居た現朗に尋ねると、彼は、困った顔で上官の方に顔を向けた。
「……まあ、終わったようですが」
「終わったからいいわよ。教授。帰るとこだし」
「死体の文句を言いに来たのなら聞かんぞ。
 私は今出かけている」
堂々とした居留守もあったものだ。
「なに言ってるんですかっ。今日こそ言わせてもらいますけどねぇ……」
文句の続きを言いながら寄ってくるのを、蘭はつんと顔を尖らせて聞こえない振りで通す。本当に口の減らない男だ。その様子をこっそり笑いながら、八俣はテーブルにあった書類をまとめて鞄にしまった。残りの珈琲を飲み干すと、現朗がカップをさげに音もなく来る。
「ありがとう。美味しい珈琲じゃない」
「……もったいないお言葉です」
蘭は、机の上の書類も持っていくよう指で指示した。
「それより。教授。
 訊いておきたいことがある」
男の文句と不満が続くのをいきなり打ち切って、突然、口を挟む。
 腕を組みなおすその堂々たる態度、先ほどまでの文句は全くこたえてない。予想がついていても癪に障る態度だ。
「……なんですっ」
不満たらたらといった声だった。普段ならばこのような顔をするだけで問答無用で蹴り飛ばすのだが、今は質問の方を優先させた。
「八俣と付き合っているんだな?」

ぴきっ。

 ……丸木戸は完全に時間が止まった。
 激は教授を凝視し、現朗がカップを落とす。警官までも開いた口が塞がらない。
 当の蘭は、部屋の雰囲気が変わったのが相当不思議なのか、きょろきょろ周囲を見わたしている。
 なにか問題があったのだろうか?
「付き合っているんだろうな?」
大問題があるのだが、それに気づかず、彼女はもう一度質問を繰り返した。この至近距離で聞き取れなかったというありえない可能性を考慮したのだ。
 ぴくん、と教授の体が揺れる。
「いいい、いい、い、いきなり……な、なにをおっしゃるんですっ!? 意味が……意味がさっぱりわかりませんっ!」
普段人を小馬鹿にするしか知らないこの教授が、こんな表情が出来るのにこっそり驚いたが、それは顔に出したりはしない。
 意味が分からなかったのか。と、一人納得して言葉を変える。
「肉体関係を持つほど親交が深いか、と訊いているだけだが?」
蘭は表情筋一つ動かさず詰問した。
 眼鏡はさっきまで髪の毛一本動かなかったのに、今は小刻みに口の端が揺れる。過呼吸気味だ。その反応だけでも答えは分かるようなものなのだが、勿論常識がかけらも搭載されていない彼女は辛抱強く返答を待った。

 ちょっと待て。どういうことだ。何故、それを大佐が知っている?
 俺が知られるようなヘマを踏んだ覚えは無い。……となると、八雲が言ったのか? 今日いきなり尋ねるところから考えてこいつが言ったに違いない。
 落ち着け。考えろ。ここは職場だ、そーだ職場だ。流せ。流してしまえ。

「警視総監……変なこと吹き込むの止めて下さいよぉ。
 それに、大佐もそんな冗談を真に受けないで。俺がこの警視総監と? 面白くないですって。全然。よく考えてください。この警視総監なら、天馬君では足りなくなったら、瑠璃男君に手を出すでしょう?」
あはははは、と引きつった頬で軽薄な笑い声を加えてみる。こんなもので納得するのは無常識上官くらいだが、今はそれをするのが精一杯だった。
 が、思わぬことに。
 その言葉で八俣の一線が切れた。

 ……瑠璃男に手を出せ、だと?

 普段は軽薄なくせに、怒り出すと止まらない。水色の髪の男を中心に部屋の温度が二度ほど下がる。
「あたし何も言ってないけど」
顔は笑っているが、目が完全に据わっている。
 息が詰まるような殺気だった。脂汗が体中からにじみ出る。
 やばい、言い過ぎたかもしれない、と後悔は後からしかやってこない。
 今日は折角彼が仕事場に尋ねてくるというので楽しみに待っていた……のに。急に、明るい未来に不穏な空気が立ち込め始めている。
「八俣からは聞いてないぞ。お前から確認したほうが良いと思ったからな」
蘭が横から口を挟むと、八俣は殺気の矛先を彼女に変えた。
「……だいたいあんたも。
 そんなこと聞いてどうするわけ? 知っても知らなくてもいい話でしょうが。
 個人的私生活を調査暴露することは酷いと思わないの?」
「単純な私生活に介入するほど私も暇ではない。
 だが、このことは大問題だ」
自信たっぷりに答える。形のいい彼の眉が跳ね上がった。
「何が? まさかあんたが、男同士は許せないとかいう鬱陶しい西洋妄想の持ち主だとでも言うつもり?
 ……隊員が男同士でやったら外聞が悪くて困るとでも言うのかよ」
彼の言葉遣いが変わった。
 脅しを微塵も気に掛けず、はっ、と蘭は鼻で笑い流す。
「そんなもの個々の勝手だろう。
 一応言っておくが、今更零武隊の外聞を気にする馬鹿はおらん。その程度の自由恋愛で下がる外聞でもない。
 そこの現朗も激も勝手に付き合っている。私の知ったことではない。
 こいつらの場合、全然問題はないからな」
完全硬直していた二人が、その一言に耳まで真っ赤にして蘭を見る。
 知ってたんですか。
 ……といいたいが声にならない。口を鯉のようにぱくぱくさせていた。
 蘭としてはここまで驚かれるほうが心外だ。毎晩やつらがうるさいという苦情が増えたのでわざわざ壁を厚くしてやったというのに。 隠していたつもりがあったのかどうかのほうが尋ねたい。
「な、何が問題なんです」
ようやく意識の戻った丸木戸が、声をあげた。
 蘭は言葉の意味が分からず、くいっと首をかしげる。
「なんで現朗と激はよくて、俺にそんなこと聞く必要があるんですかっ!?」
「私が知りたいのはイエスかノーかの二つなんだが。
 八俣。お前、どうだ? 誤報ならそれはそれで構わないが」
水色の髪は首を振った。
 そして、隠れた片目で教授を睨みつける。
「……あたしがなんで軍人の頼みをきかなきゃならないわけ?
 それに、是非、教授の口から知りたいわ。どうなのか」
ぐっと息を詰まらせた。どうやら恋人を完全に敵に回したらしい。
「と、とにかく。
 理由がはっきりしない以上答える気はありませんっ!」
何故わからないのか。
 そのほうが、わからない。
「……君と警視総監に付き合いがあるならば、問題だろうが。調べておく必要がある。
 現朗と激は私の部下に過ぎんが、お前らは違うだろう?」
「俺も、貴女の部下でしょうがっ!」
と、わけのわからない言葉で即答される。
 説明の苦手な自分が精一杯説明しているというのに、何故こんなにも意味不明な言葉を言う?
 何が分からない?
 ぷつん。―――と、限界値の低い蘭のどこかが切れた。
 右手を振り上げ―――

「相手がこの警視総監だったら、結婚祝いにいくら包めばいいかわからんだろうがっ!」

テーブルに拳を叩きつける。
 上に重なっていた書類が全て数センチ浮いて、戻る。その迫力、さすが鬼子母神の異名は伊達ではない。
 ぐうの音も出ない教授をよそに、がんがんとテーブルを叩きつけながら蘭は続けた。
「本当は、この高級取りで年上の男に結婚祝いなんかびた一文も出したくないんだぞっ。無駄に料理食いまくってやって踏んだくらねば気がすまんっ!
 だが、君は部下だ。部下の祝い金に些少も払わないわけにいくか。
 だから困っているんだろうがっっ!?」
そんなに問題だろうか、と激と現朗は顔をあわせる。
 彼女がもっと悩んだり困ったりするべき事柄は沢山あるように思えるのだが。
 例えば今担当中の事件とか。
 例えば日参してくる暗殺者とか。
 例えば修復不可能まで地に落ちた零武隊の外聞とか。
 だがそういう重要問題こそ彼女にとっては些細な問題だった。否。問題ですらなかった。
 テーブルが限界を叫び、最後の悲鳴をあげて叩かれていたところを中心線にくの字の折れる。漸く叩くのを止めて、顎につけて考え始めた。まあ、確かに悩んでいるようだ。真剣に。
「うむむむむむむ……
 やはり丸木戸君に払うべき分に合わるべきか。
 払わないというのは胸にひっかかかる……」
そうね。と、前に座っていた八俣が同調しながら居住まいを正した。彼の目も蘭と同じような色を湛えていた。
 頭の良さも悪さも同じ程度の二人は、同じような地位につき、同じような思考回路の持ち主だ。
「そういわれると大きな問題ね。
 あんたから祝い金を貰うのは、あたしが面白くないわ」
「そうだろう? 貴様と私の関係でそれはおかしい。といっても部下の分を減らしたくはない。
 元帥に伺おうかと思っているのだが……」
二人は結婚式の費用と祝い金の関係について熱く語っている。

 てゆーかそのネタ、元帥まで持ってくの?
 つうか、結婚するの? 俺。

その横で、こんな形で軍部中にカミングアウトしなければならなくなった運命に、白い常識外れ上官を心底恨みながら一人涙する姿があった。