・・・  御形  二十九話  ・・・ 


 天馬。
 と、呼ばれる前に、青年は目は覚めていた。
 体が動かなかったので反応を示さなかっただけだ。
「……母上」
掠れた声で返答しながら、そちらを見る。寝台に乗せられ幾つものチューブが体内を通っていた。天馬は帝月と瑠璃男を救出した後、神剣の後遺症のために鞍馬山の傍の病院で入院していた。運び込まれた時の青年は、何があったと医師が驚くほどの疲弊していた。
 寝台に横たわったまま零武隊となんとか連絡をとってみると、逆にそこで待機するよう命令されたので、天馬は医師の勧めどおり一室を借り切って休んでいたのである。ただ寝かせてくれるだけで良いと言ったが、西洋医学の専門家たちは若き軍人の我侭に首を縦に振らず栄養剤を無理矢理注入してくれた。おかげでたった二日だけ眠ったが、天馬の体の調子はかなりよくなっていた。なにせ、自分の意思で首が回せるようになっていたのだから。
 帝月と瑠璃男は飛天坊と八俣に頼んで保護してもらった。二人は嫌がったが、あの屈強な二人に囲まれては普段の力も出ず、また瑠璃男もかなり疲弊していたので、大人しく魔王寺で待っていた。
 零武隊の隊員が到着したのはつい先ほどのことだ。
 午前一時。
 病院は当然閉まっていたが、零武隊隊長は警備員を打ち倒し、無理矢理ごり押しで入ってきた。
「大佐と呼べ」
蘭は言いながら帽子をとる。
 息子は何か言いたげな瞳を向ける。
 亡き夫に良く似た、意志の強い澄んだ目。そして、蘭にとっては恐怖を覚える双眸。
「もう……し……わけ……ご……ざいませ……ん。
 一人…………福島……中将……………逃がし……ました」
「当たり前だ。
 お前の実力の程度なぞ知っているわ。カミヨミと瑠璃男、二人が生きていたことだけでも幸運だと思え。
 次の作戦に移るぞ。体は?」
「明日……には……うご……け……ます」
「ふっ、根性だけはあるようだな。
 ―――まあいい。
 作戦が決まった。帝の行幸に化けて最後の天狗を討つ。お前も近衛兵に扮して一緒について来い」
こくり、と寝ながらうなずく。
 上半身を起こそうと努力はしたが、体は言うことを聞かなかった。びりびりと筋肉が悲鳴を上げてかすかに布団が擦れるだけだ。だが、天馬は明日には立っていつもの通り動けると確信していた。これくらいならば、母親との稽古のやり過ぎの結果で何度か経験している。
 喉が焼け付くように痛い。
 蘭は息子の様子を見て、横においてある水差しをとった。
「飲むか?」
再び首が縦に振られる。
 そっと青年の口に、水差しの先を差し入れた。
「……ゆっくりと飲まないと咽るぞ。
 一つ、お前に渡したいものがあってきた。
 私は一度最後の天愚と手合わせをした。
 ……三浦中将。お前も知っているだろう? 陸軍名古屋第3師団長殿だ。奴はそこいらの天愚とは違う、お前や私と同じ異形の者だ」
そこまで独り言のように一息で語って、そっと水差しを戻す。ガラスの中は空になっていた。天馬は満足したように口を閉じ目を伏せる。
「三浦中将……やはり、そうでしたか。
 かなり強いのですね」
「まあな。でなければ取り逃がしたりするものか。
 奴は『菊理』を見た。八つ裂きにしても気がすまん」
「―――あれはもう、神剣ですよ。母上」
「大佐と呼べ。
 二度は言わせるな」
不機嫌に言い放った後、彼女はポケットから漆塗りの小箱を取り出した。直径一寸程の小さな円形の蓋二枚に挟まれた、綺麗な紅入れだ。天馬はそれを家で何度か見かけたことがあった。
 何をしたいのだろう、と青年の顔に疑問符が浮かぶ。
「私の父から頂いたものだ。私の分は別の箱に分けてあるから、もう、これはお前が持っていろ。
 ……と、まさか、こいつの使い方を知らないのか?」
「申し訳ございません」
怒るかと思いきや、母は息をついて少し微笑んだ。
 そういえば言ってなかったか、と口調は少し柔らかい。
「ただの紅だ。
 お前もこれから幾度か真剣勝負というものに立ち会うことになるだろう。これは、互角の相手と手合わせをする時に塗るものだ。
 もし首を刎ねられた時、土気色した唇では折角の首も見栄えが悪い。
 それでは、相手に失礼だろう?」
肌身離さず持っておくのが武人の礼儀だ。
 と、彼女の弾んだ言葉は続く。師匠と弟子として天馬を対峙するとき、蘭は少しだけ笑顔が綻びる。母と息子のときはいつだって不機嫌そうだというのに。
 ありがとうございます、と掠れ声。
 彼女はそれを病人の目の前に置いて、踵を返し水差しを持ったまま病室を出て行く。無音の部屋の中に、扉の閉まる音が響いた。
 暫くしてから、天馬は痛む肘を伸ばし、小さな紅入れを手の中に収めた。星明かりで漆が微かに光る。何十年も使われている、手になじむ感触が合った。先祖たちが、死を覚悟したときにそれを手にとった。そう思うだけで感慨深い。そして、これを持つことを母に認められたことが嬉かった。
 紅入れの蓋を開ける。星に照らされたそれは禍々しい赤の色。
 つい最近使われたばかりの形跡がある。……おそらく、赤間ケ関の事件に間違いない。
 あの時の母は、綺麗な唇の色をしていた。
 戻ってきた蘭は青年が手にとっているのをみつけて、口角を引きつらせる。青年の手からそれを奪い、小指で朱をとった。まずは天馬の口に塗り、そして自分の口に塗る。
 蘭はぺろりと唇の回りを舐めて、悪戯っぽく微笑んだ。
「……旨いんだ。だからたっぷり塗ることを薦める」
言って、寝台に腰掛けて軍靴を脱ぐ。布団の中に入ってくる。
 うぐっと天馬が悲鳴を上げると、蘭はけらけらと笑い声を上げて無視した。
 腕を回して、暖かい息子の体温を感じて目を閉じる。天馬も他人の心音に耳を傾けているうちに、気が静まって眠気が襲ってきた。
「…………三浦は強いぞ」
「わかりました」
「面白い作戦を考えた」
「あまりやり過ぎないで下さい。日明大佐」
くつくつと、喉で笑う声が闇に響く。
「……愚か者。今は母上でいいのだよ」


 御形の異名=母子草。個人的な記憶としてはめっちゃ苦かったように思うのですが、ちょっと甘めの話にしました。