・・・  いじめの中で  ・・・ 


 日明が医務室に戻ってみると、激はすでに着替えて待っていた。寝台に腰掛けて窓の外を眺めていたが、入ってくる上官に気がつくと立ち上がって敬礼をする。
 結局あの後、独身寮に戻すまで我慢させるのはよくないと判断して、医務室を借り切って激にあてがったのだ。人がいなければ、彼としてもいろいろと自由にできる。丸木戸は大事なときに嘘を吐く人物ではない。その言葉を信用して特に中和剤も解毒剤も使わなかった。
「起きれたね」
「は、はあ。本当、すみません」
疲労と脱力感とはあったが、一方で、やけにすっきりとした腰元の爽快感がある。今もう一度同じ薬を盛られたら地獄だが、正直なところ、男としては天国に行ってきた気分だ。
 汚れ物をひとまとめに包んだシーツを、ちらりと日明がみる。その視線に気づいて激は顔を赤らめた。気持ちはよかったのだが、やはり軍内で致したと思うと羞恥心がこみ上げる。それも致したとか言うレベルではない、やりまくったのだ。臭いが気になって窓を全開にしていたが、それでも体にしみついたそれはなかなか落ちるものではない。
「いやぁ、なんといえばいいのか、こっちは言葉がないよ。
 初犯……じゃないからね。あの二人」
「お蔭様で、今回は特に実害はありませんでしたし。
 ……あんまり」
思わず激が口ごもって、つられて日明も言葉がなくなる。
 なんと言えばいいのかわからず、沈黙が訪れた。
 ああ、うう、と激がなんとか間を持たせようと言葉を捜す。今の状態で黙り込まれると、なんとなく気恥ずかしい。
 まあ、と日明から切り出した。
「お姫様な君の貞操が守られたから、実害なしか。
 処女でしょ?」
 にやりとした笑みを浮かべて、あえて下品な揶揄を飛ばす。
 この上官でもこんな表情ができるのが、意外だった。 蘭の夫という潔白なイメージしかないが、彼も雄なのだ。エロ話がわからないわけではない。 この一言は、思いのほか激を救った。
 急に表情が生き生きと輝いて、同じにやりとした笑みを浮かべる。
「あはははっ。
 何いってんすかぁ、やばかったのは現朗姫っしょ。
 あいつ、マジで女みてぇなんだもん。肌は白いし、体は華奢だし。
 …ここだけの話し。ちょっとやばかったです。俺の理性に感謝して欲しいよ。
 なのに本気で殴りやがって、ひでぇや」
「なんか随分やられてたよね」
「薬で防御できなかったんで。一発だけっすよぉ」
たはははと彼は朗らかに笑う。その青年の明るい顔を見ながら、日明は静かに考えた。彼の穏やかな目がわずかに細められる。
 ……ああ、わかってないんだ。
 と、思ったが、そこまで教えてやる義理はない。だがこういう相手を狙うのは大変だろうな、と金髪の青年に深く同情はした。
「あと十分は昼休みだから、ゆっくりしておくといい。
 勿論出席扱いにはなっているから、このままサボるというのもありだけどね」
「大佐がいないなら俺が出ないと、あいつも大変ですし。それに……実は喧嘩の反省文の途中だったんっすよね。
 着替えとか、その、助かりました。」
「軍の支給品を特別に前借させてもらったよ。運良く君のサイズのものは全部そろっていたから。
 ……あと、反省文は要らない。それも蘭さんが仕組んだものだ」
苦笑しながら返答すると、ちょうど現朗が医務室に入ってきた。
 敬礼もせず、一直線に友人の元に向かう。
「大丈夫か?」
「あー。なんつーか、むしろ天国いってきました」
正直な彼の感想に、青年のこわばった顔が緩んだ。
 体に残る毒ではないか心配だったのだ。
「丸木戸さんに今度貰おーぜ。いやホント。すごい効く」
「あんま中毒にならないようにね。軍内に横流ししてもいいけど」
上官とは思えない台詞に、現朗は驚いたが、激は笑った。
「とかなんとかいってぇ。大佐に一服盛ってみたり……」
「あまり面白いことをいうと日の目見れなくなるよ」
軽口をさえぎってさらりと脅迫をする。
「すみませんっ。愚問でしたっっ!」
「冗談だよ。一応」
彼らのやり取りを見ながら、一方で現朗は真剣な面持ちをしていた。会話が区切れるのを見計らって、
「大丈夫なら行くぞ」
と、一言。
 いいながら手をさし伸ばす。
 全身が、少しこわばっている。
 緊張がばれぬように細心の注意を払っているつもりだが、声が、いつもよりもずっと高い気がする。ばれて、ないだろうか。不思議に思われていないだろうか。
 拒絶されたときの、恐怖がまだ体に残っていた。
 それを、どうしても拭い。
「おう。
 なーんかすっきりして逆に動きたいカ・ン・ジ。
 稽古しようぜ」
激は『いつもどおり』がしっと手をつかんで、笑みを見せた。
 その笑みにどれだけ救われるか。
 現朗の頬が紅潮する。
 そこまで見届けると、日明は口を開いた。
「窓は閉めてくれる?」
 はーい、と気のない返事をしながら、激は手を離した。


 *****

 「……鳶の油揚げ」
日明がぼやくと、
「……あまりに躾のなっていない飼い犬は、狂犬病と間違われて処分されてもしりませんよ」
現朗はドスをきかせて答える。
 どうやら今朝の一件のせいで、キレやすい状態らしい。揶揄いをまともに流す許容もない。
「躾は大事だけど大変だよ。
 つい甘くしたくなるから。
 ……でも、それはどうも君も同じようだけど?」
「何処がっ」
「危機感なさすぎるよ。彼。
 君が女みたいでやばかった。だから自分の理性に感謝してほしい―――
 なんてすごいこと言っていたよ」
心臓が痛いくらいに飛び跳ねる。まさか、そんなわけがない。激が自分を肉体関係で見れるはずがない。
「うつろー。行こうぜ!」
いつの間にか扉のところにいた友人が名を呼んで、引き戻された。小脇には汚れ物の詰まったシーツを風呂敷のようにして抱えて待っている。
「世間一般用語では脈あり、ってやつでは?」
「薬のせいです。
 関係ありませんっ」
「あの薬は市販のものだから、効くといっても高が知れているし。
 ……それと。
 みもふたもない話だけど、男の心は体に忠実だからね。抱きたいってことは好きってことでいいんじゃないの」
「大佐が厭う理由がわかりますね。
 そう、ずかずかと心を読むはおやめ下さい」
日明は困ったように肩をすくめた。
「俺を責めるのは簡単だけど。
 鳶の油揚げ、ってなるかもよ」
はっと青年の目が見開かれる。

「手を出すのは我慢できても…………手を出されるのは我慢できるのかい?」

 現朗は生唾を飲みこむ。
 どんっ、といきなり背中を押された。
 驚いて振り返ると、至近距離に男の顔があった。
 唇がゆっくり動くのが見える。
「じゃ」
佇立する青年を残して、日明は颯爽と出て行った。

     ……あと一歩。

 困惑気味の青年の心とは対照的に、窓の外には五月晴れの真っ青な青空。雲ひとつない、抜けるような空の下には青葉が光る。
 ……たぶん、手を出されるのは、堪えられない。
 そこは事実だ。
 ならば、とる方法は一つしかない。
 諦めない。
 そこに思い至ると、急に胸の奥が熱く胎動を始める。
「行こうぜ、早く。昼休み終わるぞ」
痺れを切らして側まで来ていた友人は、現朗の手をとった。
「ああ」
明るい日差しの中に、初めの一歩を踏み出した。